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領土の概念

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 4月28日(金)06時22分59秒
   現在の各国の領土の線引きは、勿論、世界大戦後に決まった。国際的な条約や規律も、その時点で確立した。だからそれを守るのが正義と言いたいが、そうはならないから事件が起こる。
 歴史的にみても、戦争に勝ち、勢力を持つ国が領土を決めるのは自然の成り行きだ。問題は、これらの国の勢力分布が変化した時、それまでの取り決めは反故になる。いくら正義を説いても、その正義は空しくなる。力が強い国家が決める領土や、規律が世界を支配することになる。
 戦後七十年、日本の国民の大多数は、現在の国土の線引きを正義と思い込んでいる。だが、これは違う。本来領土の区割りは、世界のどこを見ても時代と共に流動的なのだ。自国の領土と思うなら、自国で守るしかないのだ。この単純な常識が常識でないのが今の日本だ。中国の領土拡張は、中国の国力が衰えない限り、どこまでも続く。先の大戦で遅れを取った中国は、それを取り返すべく、モンゴルを始め周囲の民族域を強奪し、更に周囲を拡大してゆく。彼らにとって、このことの罪悪感などなく当然のことで、世界の規律も己れがつくる。いわば勝てば官軍なのだ。
 各国が自国の領土保全を行いたいならば、国際世論や規律に頼るのは幻想に近い。究極的にはそれは、自らの防御能力や政治力の如何によって決まる。日本は、広大な海洋国家だ。四方の島々の防御には多大なコストがかかるが、その防御を全うするにはどうすればよいのか。昔は防人の考え方があったが、中国のやり方も参考になる。国境の最端に、はっきりとした統治施設が必要ではないか。自然を大切にしたいが、価値観のない偽装集団などで、他国に荒らされては元も子もない。ターゲットは見えなくても、未然の防衛は何処にでも必要だ。
 英国の例だが、自国とは殆ど考えられない遠い島がアルゼンチンの傍にある。どう見てもこの島は、アルゼンチンに属するように見えるが、力による略奪の歴史は今も生きていて、これを維持しているのは対話ではなく武力だ。仮にアルゼンチンの武力が強大になれば、対話の手段も生きてくるのではないか。このような例は、何処にでも起こり得る。領土の線引きは、有っても無いようなものという認識が必要だ。
 
 

国会の未成熟

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 4月26日(水)06時04分4秒
   国会の議論が全く面白くない。やるべき議題でも、殆ど末節のような部分に時間を費やし、その果てには議論が尽くされていないと言う。馬鹿々々しくなってしまう。国家の問題としては、たとえその実施が十年先であっても、それは緊急の問題だという認識に欠けるようだ。目先の緊急性は誰でも分かる。しかし、国家の大計は政治家でなければ察知出来ない。政治家の最も価値ある能力なのだ。それが著しく欠けているように見える。
 何故なのかと考えてみる。政治家を目指した時点では、大方は国家や社会に奉仕するという大志を持っていた筈だ。ところが現実には、票集めが厳しく、党に所属すれば、少しでも他党を凌ぐ行為を背負わされ、言ってみれば日常事に齷齪することが身に付いてしまう。議題の本質より、相手の欠陥探しになり、議題そのものの価値や大きさの重要性すら見えないようだ。全て大衆迎合型の行動が見え見えで、ポーズをとる者までいる。政治家の人なりの中に感じる、「深沈厚重」奥深い思慮が伺えなくて尊敬の念が湧いてこない。
 よく考えてみれば、これはマスコミに起因しているのではないかと思う。新聞のでっち上げの虚偽報道事件あたりから、マスコミ自体の質の低下がある。NHKすら、社会の規律を守るとか、公正な社会への啓示はやらないようになった。マスコミ自社の収益のために、それぞれの社の特性が薄れ、同じような番組を頻繁にやり、また古く保存された映像や、海外の技術レベルの低い画像を何度も放映する。番組制作コストの削減のように見える。報道や娯楽の質を競う考え方は無くなった。そして、このような中に出演し、知名度を上げ、政治家になるのだから、結果の政治もそれなりの水準になる。スマホのような伝達技術の進歩は、この影響が直接に政治に及ぶ。
 政治家の中には、国家の大計を推進する者がいない訳ではない。しかし、それらの問題に取り組んでも、票にはならないと言われている。至近の問題でなければ、マスコミは取り上げないし、また問題の価値や重要性の報道をしない。というより、その価値の大きさ自体に対する認識がないのかも知れない。まして大衆が、問題の理解が出来る訳はない。マスコミを活性化し、その質の向上を目指すにはどうしたらよいかも分かっているのだが。
 隣の国でも大変のようだ。大衆が落ち着いてじっくり考え、問題の価値を読むどころか、感情の先走りのような行動が目に付く。そして、もっと大きな価値のものを失う。機会損失の発想はどこにもない。マスコミの影響は、与えられた独占的な権利に近い。であるが故に、それぞれの社が、社としての理念を大衆に知らしめ、他社との相違を明確にすれば、大衆は報道の質が分かり易くなるのではないか。大衆がマスコミを選ぶには、それぞれの社の独自性が必要で、横並びの報道では見る興味も薄れる。
政治家の質は、マスコミによって鍛えられるといっても過言ではないのではないか。そうなれば、国会の質疑も本質論に限りなく近いものになり、有意義になるのではないか。

 

想い出の歌 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 4月24日(月)06時23分10秒
   久しぶりの同年配の友人との出会いで、歌の話になった。若い頃を思い出していると、どんな地方で過ごした方でも、唄う歌は同じもので、共有感があり楽しい。調べてみると、明治、大正に至る音楽教育は、国家が何度か歌の選定を行っている。これに基づく教育体制だった。
 十年以上も前になるが、己の記憶力を確かめるために、覚えている歌を網羅し、正確かどうかの調査を行ったことがある。その結果を冊子にしていたので、お互いの想い出に役立った。当時は何の意識もなく、ただ、面白半分に唄った遊びだったが、人生の殆どを過ごしてしまった今では、これが意外にも人生の豊かさの基になることを知る。散歩をして老人施設の横を通ると、老人達が集まって唄っている。その歌は、子供の頃の歌だ。今になって思うのだが、当時は無駄と思うようなことが、後に意外にも大事なことだったかが分かる。
 子供には過去がないから、「今に見てろ!」と未来に期待する。老人は先がなく過去だけだから、「俺が若い時は・・」という話ばかりになる。過去が多彩であればある程、楽しみ方も多いということだ。従って、若い人達には、出来れば多くのことに興味を持って欲しいが、本当の理解は無理だろう。
 歌は何度も唄い込まないと身に付かない。唄い込むことによって、それぞれの曲や歌詞の良さが分かり身に付く。それが、記憶の源泉になる。歌は、己が幾つの年で、どんな場面で唄っていたかが鮮明な記憶となり、自己の歴史の見出しの役割を果たす。歌が世に出た年代は明確に残る。そんな思いの中で、毎月二回の歌会を持っている。勿論、現時点でも、心に残る新曲はある。それを、しっかり覚える。それが、十年後に威力を発揮するだろうという淡い期待をもつ。そのコツは、己の好きな歌手や、発声の声帯が似ているものを選ぶことだ。歌は年に数曲ばかり身に付けば、自分の生きた年代が明確になる。
 

空母を持つ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 4月22日(土)06時25分29秒
   空母は国家防衛に必要だろうか。この問は、勿論、他国との安全保障協定のない国家独自の防衛が前提である。答えは、当然のことながら、現代の戦闘では必要ということになる。海洋に面した国家の軍隊は、空母を持たなければ著しく戦力が劣る。
 ある時、日本の防衛組織にいた人に、日本は何故空母を持たないのだろうと聞いたことがある。単純に四方を海に囲まれた国家が、空母を持たない軍備であることに疑問を持ったからだ。予期した答えは、米軍がそれを補完しているからだと言えば納得だった。ところが、日本国憲法との関連だというのは驚きだった。こんなチグハグなことはない。憲法が戦争を禁止するから、軍隊はもってはいけないというなら、憲法の良し悪しはともかく明確だ。しかし、防衛のためなら、軍隊は持っても良いし、戦争もして良いというなら、当然のことながら、空母もない軍隊は話にならない。防衛といえども戦争に変わりはなく、何が防衛で何が攻撃かの区別は現実的ではない。攻撃は最大の防御というのは真理だ。現代の武器では、数分の先制攻撃が効力を発揮する。戦争の意図は、双方に正義があり、侵略かどうかは戦後にならなければ分からないのも真理だ。
 日米安保は、分かりにくく、米国の統治者次第では何時でも破棄出来るし、安保の実践は互いの国家の裁量が流動的で事態により変化する。日本に国力があるならば、日本独自の戦力を持つのは当然ではないか。基地の問題にしろ、沖縄を含め問題の解決には、米軍に代わるべき体制を急ぐべきではないか。その方が、国内の政治や国土開発計画も自由度が増し、ずっと発展的にやり易い。日本が他国に通用し得る軍隊を持ち、いつでもどのようにでも対応出来ることが、戦争を未然に防ぐ相対的防衛になることは自明だ。本質を見ずに、末節の解釈や議論などで時間を費やし、国家の損失を起こす愚は止めたい。これまでの十年の愚もさることながら、これからは、今までのやり方では更に損失が加速される。
 中国や北朝鮮が空母を持てば、日本も持たざるを得ない。空母は、戦力の基地が固定されず、常時移動的な戦力の存在や、対応の物理的即応能力の強化になるから重要ではないか。何もせず、願望や期待を相手に求めるのでは、一流の国家とは言えない。
 

古代の国家 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 4月18日(火)19時32分38秒
   機会があり、奈良の飛鳥周りを散策した。この地に日本国家の発祥の鍵がある。西暦600年より少し前の聖徳太子の時代になると、文字も普及し歴史的に実態を掴み易い。だがそれ以前になると、発掘などの実績から推測の域になる。
 戦後の教育は、あまりにも実物主義を強調したせいか、思考過程が単純化し、日本国家は七世紀という人まで出てくる。これは極端過ぎて明白な誤りだ。歴史家の西尾氏も言っているように、人の記憶を口頭にて伝える文化も重要で、「古事記」などの記述を軽視してはいけない。人には、能力的に異常に優れた者がいる。例えば、子供で、全国の列車の駅名を全て語れる記憶力や、数学の計算能力が異常に出来る者がいる。通常の人では及びもつかない能力だ。古代では、このような人が、特殊な役割をしたとも考えられる。古墳の中の絵画の色彩や天体観測なども、突然には出来るものではなく、通常技術として発展してきたものだ。従って、先の「古事記」の神話が、現実には何を意味するのかも興味が深い。海外でよく知られているピタゴラスは、紀元前六世紀頃で、文字はなく、その数学定理は伝承文化だ。
 それでも、日本は、一世紀頃には国家の形態に近い、大型の支配組織があったことは確かだ。これは、中国や朝鮮との関係でも頷ける。古墳の構築規模は、国家のような大きな集団の力がなくては出来ない。また構築技術や集団構成の統治は、大集団を統治し養える力がなくては成り立たない。それも、一朝一夕にして出来る時代ではなく、数百年の経過の中で小さな集落群から統合されてゆくものだ。
 こんなことに思いを馳せると、どの時点という区切りはないが、国家らしい形態が整ってくるのは紀元前であろう。神武天皇の御代という明確さはないが、小さくても統治者らしき集団が存在し始めたのかも知れない。それを裏付ける発掘がより一層進むことを期待したい。
 

中国・韓国は儒教国なのに何故

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 4月 7日(金)07時36分4秒
編集済
   私は、これまでずっと、中国や韓国が日本と同じ文化を持つ儒教の国でありながら、社会の道徳が何故正反対のように異なるのだろうと思っていた。先日、今年発刊されたケント・ギルバート著の「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」を読んで、やっとそのことに理解が出来た。
 私は、漢詩を読むし、中国の歴史の著名な詩人を尊敬している。また、論語を読むので、その中の、仁、義、礼、智、信、についてはすごい見識だと思っていた。だが、四書五経を全部は勉強していないので、儒教の全貌を理解してはいなかった。それにしても、同じような学問をしても、その道徳が正反対にまでなってしまうというのは、理解が十分にできた訳ではない。例えば、「己の欲せざる所、人に施す勿れ」という意味が、韓国や中国には通じない。また歴史認識と言いながら、両国のその歴史の事実の検証たるや、相当にいい加減で、手前勝手に解釈する態度、果ては、他国の文化までも自国の文化などと嘯く、その欺瞞さは四書五経のどこにもないのではないかと思う。
 前にも書いたことがあるが、日本は、世界で最も長い一貫した統治の古い歴史を持つ国家だ。今から千五百年前の聖徳太子の十七条憲法に「和をもって尊しとなす」という言葉は今でも生きている。これに対し、中国や韓国は、国家の存在はあっても、その統治は民族の支配自体が変わるので、それまでの文化を破壊し、己の統治に都合の良いものばかりにする歴史だから連続性がない。だから、本質的にはそれらの国家は三百年ほどの歴史しかない。現在の中国は戦後四年を経た頃の建国だからまだ七十年余りの歴史だ。そのような国民が、歴史上優れた書籍を正しく理解する筈もなく、自国に都合のよい部分だけを取り上げ曲解するのが、ごく普通に行われたのではないか。分かり易い例が、つい先頃、韓国の大統領までもが嬉々として参加した対日戦勝記念式典だ。勿論、日本は韓国と戦争はしていないし、中国の新国家が出来たのも日本の敗戦後よりずっと先だ。中国は、国家が変われば民族が変わるから、国家も別の国家だ。それほど歴史の見方が杜撰なのだ。
 冒頭の書籍では、階級社会や権力政治を前提にする儒教が、中国や韓国を異質な国家にしているように記述され、日本は、その中から良いとこ取りをして良い社会を創ってきたとある。論語を読む限りにおいては、私は少し違うように思う。古い文化を読み解くには、その著者(ここでは孔子)の本意を正しく捉えることが大事で、日本の社会や教育はその意を尊重し正しく扱ってきている。だから、その精神を今でも正しく伝えるのは日本だと思う。頭書の儒教の国家が何故こうも違っているのかの疑問は、中国や韓国がむしろ儒教の良さを壊してしまって、迷惑千万な社会になってしまったのではないかと思っている。
 日本は自然崇拝の国民性を大事にしてきた。だから、天皇制や政治や宗教も絶対的ではない。自然の中で、人間は小さい存在だからこそ、その人間性を大事にする、それは他人に対しても大事なことは容易に受け入れられるのである。行為は憎んでも、人を憎んではいけないのだ。日本に居て日本国籍にあるならば、この理解をすることが必要だし、そうすれば、人種を超えた社会の維持も出来る筈だ。
 中国は、今、漢民族の支配下にある。過去は、支配が北方の民族やモンゴル民族だったこともある。これらの支配になれば、その成り立ちをみれば分かるが、領土拡張がその支配の強大さを示し、それが夢なのだ。モンゴル民族が中東や欧州の一部にまで及び、日本への侵略をも試みた歴史がある。その理念は、今でも大きく変わることはない。今、世界に起こっている中国の迷惑行為は中国にとってはごく自然なのだ。また逆に、今支配下にあるチベットやウイグル、モンゴル民族が、何時中国全体を支配しても不思議ではない。中国共産党には国境はなく、あるのは今の勢力の実力の結果だ。だから際限なく領土獲得の熱意は変わることはない。
 最初の疑問に戻るが、儒教はそのような荒廃した人間性を少しでも豊にしようとする試みの部分でもある。だから、彼らは優れたものに学ぶ精神は持ち合わせていなくて、何を利用するかの自己中心的な価値観になっているのだと思う。韓国は、中国に属する自主性に欠ける国家として、常に中国の支配下で自治を行うことを何時も志向している。そのように見れば、今の国際間の軋轢を無理なく理解できる。異質な米国や日本を、何時も敵か競争相手と考える概念が住み着いている。己が優れて品位を高めるよりも、相手を卑下することによって相対的に己を高めることに喜びを持つ。逆に日本では、そのような行為は、最も卑下される行為であり、これこそ儒教の精神にもとるのではないか。
 テレビ番組の中に、韓国や中国出身の論客が登場する。日本の大学で教鞭をとっているのだから、論点に矛盾があれば、恥ずかしい思いをするのではないかと思うが、どうもその気配はない。自国を弁護するのを悪いとは言わないが、もし弁護ならばそのことを明確にして説得するのがよいという感覚にはならないのだろうか。無理な正当化への強弁が鼻に付いて、どうにも受け入れ難い。
 

インフォーマルグループの価値

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 4月 3日(月)07時36分3秒
編集済
   社会には、その内容の良し悪しにかかわらず、多くのインフォーマルグループが存在する。人は人に頼らなければ生きてはゆけない。だから、先ず小集団が発生する。国家は、その延長上にある。その社会に生きている以上、いくら孤独を嘯いても、それは認識不足だ。
 私のように、長い人生を過ごしてきて分かることだが、周囲との関連が深い間は、否応なく集団に巻き込まれるから、敢えて自分と密接な集団を意識することもない。だが、一切の仕事などを離れ、個人の体力も衰える歳になれば、己と社会の関わり合いが、全て己れ自身の問題であることに気付く。即ち、己が積極的に他人との関わりを持つ意思を失えば、社会から脱落するのだ。個人と個人の付き合いのように見えても、他人と関わり合うということは、そこに一つのインフォーマルな共通概念が存在する。それが集団となり大きくなれば、各々個性は異なるから、自ずから共有するある種の制約が生まれる。だから、人生を最後まで有意義に過ごしたいと思うなら、身の周りにインフォーマルグループを、多く持つ努力が必要だ。時には、意に反するような事や興味のないようなことでも、先ずは受け入れ、咀嚼してみる度量も必要になってくる。己が仕事に現役だった頃の社会観を捨てろとまでは言わないが、その社会観が極めて小さい特殊だったことも改めて認識し直すことも重要だ。でなければ、その後の人生はじり貧になるのだ。結果として、身内に頼る重荷にだけはなりたくないものだ。
 次元は異なるが、政治にはフォーマルグループがある。どんなフォーマルグループでも、それが大きければ大きい程そのグループ内の制約は明確にされているが、この縛りは基本の部分だけになってくる。インフォーマル組織は、その中に存在しグループの理念を持つ。従って、インフォーマルグループの力量や質が劣る組織は機能しない。政党と言っても、中身はインフォーマルグループの集合体だから、そのインフォーマルな部分の良し悪しは、結果的に政党の実力となる。だから、政党は寄せ集めでは成り立たず、政党らしい政党を目指すならば、その前身のグループを、時間をかけて育ててゆく以外に方法はない。グループ内のメンバーが、日頃の苦楽の中から、お互いに合意する理念が拡大してゆく過程を無視したら、その組織は脆弱になる。
 社会に何かを行い、何かに貢献したい気持ちは多くの人が持っている。その気持ちを効果的にしたいなら、インフォーマルグループの集まりを育てる努力が必要だ。育てれば、そのグループは成長する。既存のグループに参加して何かを得ようとする人も多いが、長続きはしない。それは、そのグループの価値自体の認識が大本のところで異なるからだ。集団を意義あるものにし、社会に貢献出来るかは、インフォーマルの価値をしっかり理解しているかどうかにかかっている。
 

個人資産家の実力

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 3月31日(金)07時34分6秒
   世界で国毎の個人資産家の数が報道される。その中では、本当に世界や自国に貢献し、その正当な価値の対価を得て資産家になった人々はごく僅かだろう。大半は、政治組織の不合理のなかに利を得たと思われる。
 資産家のトップは、ビルゲイツだということは、その業績からして幾らか納得出来る。しかし、多くは不動産、金融による利だとなれば、これはもう社会の崩壊を意味する。自由主義であれ共産主義であれ、本音は弱肉強食を正当化し、人間の欲望を充たすものだ。前世紀に蔓延した物理的な武力という手段を回避し、代わりに新たなシステムに乗じたソフトの武力だ。国内であれば、法律で政治システムに制限を行うことは可能だ。だが、世界規模になると、制約は限定的になり、その世界の支配は強者の国家による支配下になるから歯止めは困難になる。金融規模の大きい米国や、これからの中国が不合理なシステムを支配する。世界の理念が、自国主義に向かうのも自然な成り行きだ。
 若干、話しを分かり易くするために、古い封建時代の歴史を見る。貧しい時代の真の価値を生み出したのは、弱者の農民だが、権力者は武力により、この価値を搾取出来る制度を作り上げた。この制度は、一つの国家としては長期にわたり普遍的なものだった。価値を生み出す者への対価は、極度に抑え虐げられた。近代になって、人間性の目覚めが起こり、国家により人権は保障する思考へと移るが、今度は国家と国家の民族主義が世界で蔓延し、人種間の人間性を害し、支配による搾取が行われた。ここでまた、生産者の生み出す価値が、支配する国家を豊かにする国際環境へと拡大した。
 この道理は、現在でも基本的には変わらず、支配の形態が複層化し、国際秩序は無力化する事態となってきた。新たに生み出される創造や、優れた技術への対価は、国際金融に支配されてゆく。社会や人間性の価値観をも無視する利権への追及は、今、一種の聖域とも思える経済概念の乱用で無力化する。個々の国家のあり方は、あたかも個人の人間性のように、それぞれが優れた個性を尊重されないままに発育不良となり、学級崩壊のような社会に落ち込む危惧さえある。国際社会に、侵すことの出来ない規制、基準が、社会の道徳のように機能しない限り、大国の我欲はやがて秩序破壊となり、結果として自己繁栄もない。
 富や資産のようなものが権力となり、個人に集中することは、それほど個人が有能で社会に貢献する筈もないにも関わらず、見過ごしてしまった結果、起こってしまった社会の欠陥であり、このまま続けば社会システムはいずれ崩壊する。社会を大事にする子供が教育で育つように、丈夫な国家が数多く育つことが、世界秩序を保つ鍵となり、そこには、個人も社会貢献に適正な対価で評価される国民が育つのである。人の本性は、生まれながらにして能力に差がある。能力差による社会貢献が違ってくるのも当然だから、その対価も違って当然だ。だが、その対価が、人間社会にとって価値あるものとは言えないにも拘わらず、制度や利権によって著しく利が拡大する事態は、早く改革しなければ大衆は不幸になる。
 

首脳の人選 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 3月28日(火)07時17分27秒
   組織のトップに立った時、最も大事なことはと問われれば、それは人事だ。人事というのは、己の理念や政策を遂行するのに、ベストの人の起用がなければ、もうそこで勝負は決まってしまう。だから、トップになれる人は、常日頃から、その構想を熟考しておく必要がある。
 ところが、自分では出来ると思っていても、そうたやすいものではない。先ず、トップになれる人の最大の素養は、人を見る目が確かであることだ。口で言えば簡単なことのように見えるが、実は政治でも企業でも、殆どのトップは、これで失敗している。最悪のケースでは、身の周りに心地よい意見の者が集まり安く、事態の把握や解析を誤ることだ。親友と言われる人達などもその例で、トップの信条を忖度するあまり、不正を働いてしまうことが多い。大統領や総理大臣でも、大小さまざまで、現にこのケースが起こっている。
 人を見る目とは、その人の信条や性格のみならず、事態に対する対応の仕方や経験、或いは新規な軸を持てる柔軟さを持てるかなどもある。野にある場合は責任がないから、批判は鋭い。水準以上の知識があれば、その言はもっともらしく見える。知識が確かであれば、正しい見解も多くある。だが、そのような人が指導者として必ずしも適正ということではない。トップの重要な素養には、指導力があることが必要だ。これは誰にでも出来るものではない。人を見る目の最も見過ごし易い重要な課題だ。
 企業でのトップは、人事が時期的に熟考して進められる環境があり、間違いなければその施策は時間と共に充実していく。しかし、政治のシステムでは、トップになると同時に、直ちに執行体制を作ることが要求される。人選の誤りの危険率は極めて高い。だから、トップを遂行出来る人物は、極めて少ない者に限られる。日頃からの、人を見る目と、仕事の干渉の中の実力を見極めていなければ失敗する。日本の総理大臣が、次々と代わった時期があったが、この事態はまさにこのことを示したものだ。
 ただトップが注意しなければならないのは、部下のもつ優れた素養は分かっていても、経験が未熟な故に失敗することがある。周りはその失敗を狙い、画策して己の勢力を伸ばそうとする。次元の低い政治手法だが、残念ながら、今の日本の政治はこれが有効で、政党政策の主流にもなっている。政治家が初めて統治者としての経験をする時、当然のことながら試行錯誤は起こる。問題なのは、人の統治能力の判断は、先ず過去の習性や手法を見極めることだ。人が統治を行う場合、事が不合理でも、その全部を否定するばかりでは物事は進まないし、また過去に従ってばかりいても良い統治は出来ない。この緩急が統治者の個性になる。結果として、統治者の理念を貫き通せる手腕や技量があるかどうかが問われる。部下の政治家の素養はその個性の中にあるから、それを誤らず見通すことが重要だ。
 政治を委託しなければならない国民の責任は、非常に困難なことだが、この人物の見極めであることを知って欲しい。一言で言えば、小事にこだわらず大道に着ける政治家かどうかを見ることだ。この見極めは、論理的というより動物的本能のような感覚が、意外にも有効で、的を射るのかも知れない。
 

政策の優先価値判断

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 3月26日(日)07時47分42秒
   国家の政治における政策の決定は、大きく長期的政策であればある程優れていることは言うまでもない。長期的政権の保証がある程、優れた効果的な政策が打てる。ところが、その優先価値が見えない一般の国民は、そのことに殆ど興味を示さず、成り行きを待つか、その内に長期的政策はゆっくり誰かが考えるだろうと思う。これが、ことごとく後追いと言われる政策の実態だ。そしてそれが、国民の不幸の根本になる。
 政策が、目先の問題である程、マスコミも一般国民も興味が深く、その問題の価値の大小の判断は忘れ去られ、大事な方針への進行が停滞し、機会損失を起こす。これは、日本だけではなく、すぐ隣の国にも起こっている。小さな問題でも白熱すると、その問題が拙いと言うだけで、次元の異なる問題を扱う資格がないなどと、感情的な尤もらしい論評が横行する。もっとも、そのような政治家がいることもある。
 国家の政治家の質の水準は、政策の優先価値判断が基本理念としてあるかを見ればすぐ分かる。国家の水準も同様に分かる。やや、逆説的でもあるが、中国の政策は、優先価値判断に優れている。これは、国民の意思、感情に拘泥しない政治形態によるもので、有効な長期政策が打てるのだ。日本では、政治家の質の問題が多いのか、金銭の授受や政治資金問題が横行し、いつも二流以下の政策に、与野党共に奔走している。無駄なコストだ。このような問題を、政策としてマスコミに登場する政治家や、それを取り上げるマスコミまでが幼稚に見える。地方行政でも、東京都は市場移転のような些細な問題の処置すら出来ないでいる。それは、本末転倒のような政策集団の勢力争い以外の何物でもない。
 大きな政策であればある程、その政策の実施方針決定は期限を持たねばならない。企業も同じだが、方針の期限のない改革はないのと同じ価値に扱われる。優れた会社ほど、期限の管理が常識のようになっている。そうでない会社でも、良し悪しはともかく、経営統括者が裁断するから、物事は迅速に行われる。合議的で民主的に見える組織の経営は、実力ランクは下がる。裏返せば無責任が横行する土壌があるからだ。先の、東京都の問題も、その政策をどう見ても期限が不明確だ。期限を決定すれば、人はその時期に向かって走り回る。合目的行動が明確なのだ。責任を持ちたくない集団ほど、この期限を切る政策を敬遠する。問題が起これば、専門委員会なるものを設けたりするが、これも責任を回避する面を持つ。議論していれば、いつの間にか、誰が決めたか分からないようにして事が決まる。これが染みついた体質になるのだ。実業で鍛えられた人ではない政治家には、この経験がないから本質的な理解は出来ていない。だが千人に一人位は優れた政治家が居ないことはない。
 いずれにしても、今の不幸は、大衆化したマスコミの実力の低下による影響が大きい。民間がBS放送を持て余しているようだが、もっと多くの業者に、放送の権利を公開することは出来ないのだろうか。そうすれば競争の原理で、質の向上があるのではないか。時間つぶしの放送を見て、何も感じないのは良くないとは思わないか。
 

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