teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


頭脳の構造

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月25日(日)05時28分3秒
   頭脳の構造は、人によりそれぞれ個性によるから多岐にわたる。天才や芸術家など、一般の人には及びもつかない頭脳構造があるようだ。だが、これは優れているとかいう問題ではなく、構造そのものの特性というべきだ。生涯を通じて、その脳の特徴は、その人にとって幸せでもあり不幸でもある。
 我々一般人の多くは、多次元を構成する脳ではなく、一次元、二次元、三次元構造で十分なのだ。人々の思考は、大部分は一次元であり、記憶も行動もそれで十分だ。複雑な問題、構造に悩まされることもなく生活している。人の記憶力も、通常は一次元の状態が大部分である。だが、中には三次元構造で思考が形成されている人もいる。文系、理系の特徴は、記憶の一部がこの辺の違いにある。
 例えば、小学生の子供でも、日本全国の列車の駅名を全部覚えられる者がいる。この記憶は、お経や歌の文句のように覚えるのと、地形や環境を描きながら駅名を追う覚え方では違っている。覚え方は、人の使う頭脳構造の特性の違いだろう。
 記憶力の違いは、この脳の個性で異なってくるようだ。一般的な解釈だが、一次元構造であれば膨大な記憶量が素早く貯えられるが持続性は少ない。三次元構造の頭脳だと、構造の中に記憶を取り込むから時間がかかるが、取り込まれると持続性はある。双方共にどちらが良いというものではなく、特性とみるべきだ。
 今、大衆のなかに流行しているスマホやパソコンは、三次元構造を基本に持つから、人の脳を補助する意味では、極めて適切な道具だ。だから、徐々に、これらの武器を手放すことが出来ないようになるだけではなく、これに頼る生活へ変化している。心配なのは、逆にこの事が人の脳の構造を変化させてしまうのではないかと思う。やや生理的になるが、脳の発達にまで影響を及ぼすのではないかと危惧している。例えば、漢字が書けなくなるとか、パソコンの何処に何が書いてあるという記憶はあっても、それが己の脳に取り込まれていないことは何を意味するのか。人類が訓練によって脳の発達を遂げ、一般の動物より栄えることが出来た事実を考えると、AIは今後人種を二極化させないか。
 
 

どちらが豊かなのか

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月23日(金)06時07分52秒
   経済先進国でも、その経済や社会をつぶさに見れば、その豊かさのあり方が違う。例えば、市民が買い物に行く。帰りの姿を見れば、一方ではビニルの大きな袋を持つ。他方では、様々な大きくもない古い買い物かごを下げて帰る。どちらが豊かな生活なのだろうか。
 恐らく、日本人の九割以上は、店が支給する袋を持つことの方が豊かだと言うだろう。本当にそうだろうか。日本では、買い物かごは、戦中戦後の節約時代を思い出し、豊かさとは思えない正反対の感情を持つ。だから、社会の価値観がその豊かさを決めるのだ。では、日本の価値観は本当に人の心を豊かさにするものだろうか。他国も同じなのだろうか。
 民族や社会が異なれば、それぞれの価値観は千差万別と言っていい。買い物かごの話に戻るが、日本の社会では、一時期、使い捨て礼賛の消費経済志向を、豊かさと混同してしまった。その結果、ビニル袋は持って帰れば直ちにゴミになる。大量に買うから、好ましくない部分は大量の廃棄物となり、保存にコストをかけた上不要化し、賞味期限などという不適正な基準で、また廃棄物量を助長する。廃棄処理のコストだけではなく、地球資源の浪費を大きくする。これが豊かさの意味となる。使い捨てや浪費が豊かさを意味するという典型なのだ。
 豊かさは心の問題だから、一歩日本社会から離れれば、別の価値観がある。何年も使える買い物かごは高価だが、そのかごの色や形は様々で、その人にマッチした持ち物としての愛着もある。買い物の楽しさは、そんな個性の僅かな違いをもたらす。自から買う量も、必要な時に必要な物を買う手順となることに、何の煩わしさも感じない。何時でも買えるという思いさえあれば、無駄も発生しない豊かさがある。社会に害を与えない己の正義への寄与感さえ湧いてくる。
 これに似た現象は他にもまだ沢山ある。若者が身に付ける衣服は、特に日本社会では、他人と同じなのを好む。色調の独自性が薄く、他人が黒服になれば、自分も黒になり皆が黒服になる。車の色も白か黒になる。ある人が色褪せたジーパンをはけば、擦り切れたジーパンがファッションの価値になる。本来、このズボンの価値は丈夫で長持ちするから、作業服として価値があり、長く愛着をもって使用されたものだ。日本社会の豊かさは、言ってみれば、他人と同じことをし、それが出来ることになることなのだ。
 消費が増えれば、生産が伸びるので、経済は好転すると思う。だが、社会に無駄ばかりさせる風潮が蔓延し、そのために生産が活性化することの悪癖は、一度身についたらなかなか変えられない。コマーシャルなどの刺激で、老人家庭は、薬と栄養剤で溢れる。日本社会は、もっと効率的な消費をすべきだ、と言えば生産が落ち不況になると叱られる。しかし、無駄が蔓延する社会を基礎に発達した経済と、効率的な基準を常識として持つ社会の経済とは、その経済の強靭さは明らかに違う。無駄社会の経済不況は深く大きい。日本経済の基本を、世界的に強くしたいならば、消費も生産も無駄のない合理的社会へと脱皮しない限り、何時まで経っても出来はしない。この改革による不況は構造的で、社会の価値観から変革することになるから、相当な覚悟と推進力を必要とする。
 豊かさの標準はないが、豊かさを感じればよいというものでもない。真の豊かさとでも言えばよいのか、その豊かさは全人類にとって、好ましい方向のものでなければならないのではないか。
 

防衛力とは何か

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月20日(火)05時36分16秒
   防衛力とは、攻撃されたらそれから守る力と思う。国家の防衛となれば、相手国が攻撃してくれば、その攻撃から自国を守ることだと思う。ところが、この答えは現代のものではない過去の考えだ。現代では、そのような戦争形態はない。簡単に言えば、先手必勝を実行出来る能力を防衛力という。従って、その防衛力を持った国へは攻撃が出来なくなる。これが抑止力である。つまり、防衛と抑止力は一体で、表と裏の関係になる。
 古い思考から脱却出来ない年配の政治家は沢山いる。国会の議論が低俗化する原因でもある。政党政治の慣例のような行事がまかり通り、本質の議論が行われないから、国会討論は、特に若者に興味を持てなくする。反対のための反対や、不信任の行事など、党の存在感のPRだけのもののように見える。要は、質問の内容レベルが低過ぎるのだ。国家の防衛などの高度な課題になれば、特に議論すべきにもかかわらず、まるで本質的議論にはならない。どうやれば、日本国民を百パーセント守り、領土保全が出来るのか、双方が真剣に考える議論ではない。この責任は、質問の質という観点から、野党の責任は重い。どこかに、政策は与党が決めるものであり、野党は責任上チェック機能をやればよいという安易な論理が普遍的過ぎる。
 防衛力の本質的議論をするならば、核を含めて例外事項はなく、現実に使われている武力を網羅する初歩からしっかり解析すべきではないか。どうも政治家は、真剣さが足りないだけではなく、我が考えの土俵に他人を巻き込む弁論大会に溺れているように見える。現代では、国家と国家の戦いは、自国に居ながらして、他国の兵力を破壊することが出来る。また、その兵器の制御機能をも破壊することが出来る。北朝鮮が良い例だが、大国間の戦いは互いに傷つくから抑止力が働くという常識は変化し、小国の北朝鮮さえ大国は破壊出来ない。危なっかしい北朝鮮の防衛力だが、これが防衛の本質論だ。核を持つことも同じだ。いくらいやな武力でも、核の実現は、イラン、インド、パキスタン、イスラエルと蔓延する。北朝鮮の核は、次に韓国、日本の必然的な核装備を促しているのが現実だ。民主主義の厄介なところは、その議論さえ公開しなければならないから、武力の規模には必要以上のコストがかかる。例えば、正しくは何発の弾道ミサイルを持つかなどは、公開すればするほどコストは増大する。
 防御を盾というのも陳腐化した。盾は非現実的だ。従って防御は攻撃を意味する。国取りをやるのではなく、国を破壊するのだから、侵略の概念とは別物だ。イラク戦争の時、米国はイラク国家を破壊したが、侵略や略奪を意味しない。ロシアの領土拡張問題とは異なる。
 北朝鮮問題は、最初から中国が制御する意思はないのは分かっていても、米国はそれを放置したから、北朝鮮国家は大きくなってきた。これが現実だ。前にも言ったが、韓国は北朝鮮に併合され、中国の支配下になる、言わば中華思想の実現だ。かつて、日本が育てようとした韓国の民主社会はかえって仇になっている。米国は韓国から撤退するから、米国の日本基地も縮小する。日本民主主義はどうするのか。明治の元勲と同じ悩みが起こり、歴史は繰り返す。
 五十歳以下の次世代の政治家はよく考えて欲しい。日本が独自で持たねばならない武力は何なのか。米国を普通の同盟国と考えることは、何を指向すべきなのか。これが国家の本質論なのだ。

 

徴兵制

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月17日(土)06時18分0秒
   国家に軍隊がある以上、軍に奉仕するのは国民の義務になる。必要に応じた軍隊の規模に対応する兵が必要になる。国が大きければ、兵力は整え易い。軍隊は戦うのだから、有事になれば、国民のエゴは許される筈はない。小さい国家は有事になれば、兵力を整えるには、徴兵制を設けるのは一般的だ。国家の規模が一億人以下であれば、徴兵制は免れない。軍隊に入るのも個人の自由と思っている人がいるが、これは自由のはき違えで、義務と権利を正しく認識しない行為だ。従ってこれを間違えると罰を受けねばならない。政治家は、徴兵制という言葉すら言えないでどうする。どうしても、軍役がいやなら、軍隊のない国に移りその国民になるしかない。
 日本の国情からみれば、国家意識の問題がひ弱だから、この問題は非常に悩ましい。国家の非常事態の想定が訓練されていない。特に政権の責任者にその覚悟が出来ていないのかも知れない。明治憲法は、統帥権という形式だが、今はこのような組織の理解はない。女性の参戦も変化してきている。AIの戦略も、実用化計画は描かれているのだろうか。
 残念ながら、これら全ての政策を最も承知していなければならない政治家が、いるのかどうかというのが大問題だ。政治家は、常時より非常時に能力をどれだけ発揮できるかが問われる。東電事故程度の問題が起こっただけでも、政治家のトップや企業のトップが全く無力でうろたえたではないか。常時の対応が優れているということは、非常時の想定が完璧に取り込まれ、その仮想訓練が既に出来ていることだ。これは、国家事業と同様、私的な企業も同じだ。
 政治家は、軍事など国民にとっていやなことに触れれば、個人の支持も政党の支持も無くなると思っている。その内に、状況が変わってくれば、時期も来るから、それまで待とうと思う。だが、これまでの政治の失敗は、全て遅れをとったために、手当ばかりで後手になっている問題が多い。軍事外の産業や農業、財政問題も同じだ。特に軍事については、困難度はその通りかも知れないが、政治家としての発想が全く逆だ。
 政治家だからこそ、国民やマスコミを説得し、世論の進むべき方向を誘導すべきだ。勇気ある本物の政治家は、なすべき事を知っている。これが世間の根強い支持となってゆく。人に心地よいことばかりを述べ、一時的に支持を受けても、金と縁の切れ目のように、たちまち造反されるだけだ。徴兵制という言葉は、禁句に近いが、そのようにしてしまったのも政治家だ。当たり前のことを、当たり前に言えないで、どうして大衆を指導出来るのか。政治家がこんなに意気地がないとは、温床育ちだからだろうか。大衆の意見を代表するという言葉で、自己の責任を逃れようとする者が何と多いことか。
 

国家の真実を知る

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月14日(水)06時49分2秒
   日本の国家の実態を正しく知ることは最も大事なことだ。毎日、日本や世界で起こった事がニュースで流される。日本の人々は、世界の中でも最も多くの情報が得られる恵まれた国民の一つだ。子供の頃から、これが普通なのだから、有難くも思わないが、世界には殆ど知らされないか、嘘の情報を与えられる国家が多い。
 だが日本では、情報が多過ぎて、多くの人々は、分かっていれば誰かがやるからとあなたまかせだ。日常事で身近なことだけに興味を持つ習慣にもなった。先行きの不明な事柄に対する思考が追いやられ、議論や行動も減って単純化し、行動するのは一部の団体に限られるということにもなった。人々の物事の本質論が失せると、やがて社会の危機が迫っても分からなくなる。今、日本は、このような危機感のない空白状態に近い。
 日本はこれまで、世界の中でも発達した有数の国家でありたいと願ってきた。結果として、国家が他国と戦争をせざるを得ないことが、過去に三度起こった。だから誰もが、四度目は起こしたくないと思う。だが、国家である以上、戦争と平和は現実として固定されるものではなく、どの国にも起こる。だから、日常事より最も大事なこととして他国の行動を常に念頭に置き、柔軟な対応をし、世界情勢を見続ける必要があるのだ。
 私は、先の終戦からずっと日本国家のあり方を見てきた。日本は、先進国であると言われ異論はないが、立派な一人前の国家と思ったことは一度もない。敗戦後から高度成長時代を経て、資産も増やしたが、それでも日本は米国に従わなければならない国家であることは一貫していた。それは、戦後に米国による日本国憲法を与えられた時から始まり、米国軍の基地を日本に配置する実態は変わらない。つまり、国家と言っても本当の国家ではなく、一種の属国なのだ。それが悪いと言っているのではない。そうするのが最も適切だった時代だったのだ。新世代や、特に女性は社会進出が普通の時代になったから、この経緯を熟考して欲しい。
 私はこのような米国依存体質を、何時も忘れたことはない。その観点から述べるのだが、今、この時期は、日本国民が国家のあり方を、本質的に考え直す最適な条件だと認識している。即ち、先ず米国の世界に対する影響力が地に落ち、自国主義に転換しただけではなく、先行きの安定した保障も無くなった。日本に駐在する米軍が撤退し、普通の国になる時期が来ている。次に、中国が中央集権国家の独裁性をもって、国家の資産、特に軍事力が増大した。強国は、世界のルールを支配する。その様相が確実になってきた。北朝鮮の独裁国家が滅びず、軍備の規模や能力が増大し、衝動的な行動も現実になった。実質的な大陸の独裁国家への対応は、国家としての対等の力が必要なのは言うまでもない。特に専制主義国家は、自国の力量が全てというほど、その政策は一方的であることは自明の理である。ロシアを含め、専制国家は、他国を犯すことの理はどのようにも変わり、ルールは殆ど機能しない。米国の価値観が世界に通用しなくなることは、米国が既に中国、北朝鮮に敗北することを意味する。
 そこで、人々にしっかり考えて欲しいのは、国家とは自力で何をなし、他国に依存の少ない国家とはどうあるべきかだ。国家の概念を念頭に置かねば、その解は得られない。他を頼りにする限界や代償なども考慮すべきだ。経済も軍備も、日本のあるべき姿として、固定的概念が固まったうわべだけの議論は無駄だ。国家の本質を熟考する時期ではないか。特に下野にある政治家は問題だ。議論、議論というけれど、国家の本質に触れる話は皆無に近い。
 

民主主義は滅びるのか

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月13日(火)06時20分2秒
   民主主義は滅びるのか。日本人であれば、多くの人はそんな筈はないというだろう。つい二十年ほど前までは、共産主義社会を始め、専制主義の国家は、いずれ滅びるという話がまともにささやかれていた。今では、その時期から見れば、これらの専制国家の繁栄は著しく、経済に加えて科学技術の水準まで高度化した。例えば、日本の原子力技術は衰退し、高速増殖炉もんじゅは廃止となったが、それを凌ぐ中国の技術は、既に稼働領域に入り、未来の核燃料計画への技術を高度化させつつあるという。宇宙空間技術も、実用化への戦略は、日本より優れているとも言われる。日本が教えを乞う時期が来ることにもなる。
 民主主義国家と言われる日本は、社会の全てのものが遅れをとる。それが民主主義の本質といえばその通りかも知れない。民主主義は危険を回避する機能が働くとはいえ、そのこと自体が未知のものに対してはブレーキとなるのだ。これから、EUも米国も先進国から後退してゆくようであり、資源のない日本はそれ以上の後退を余儀なくされる。
 歴史的には、民主主義であればこそ、社会の多様性が発展し、専制主義を打破した。現代の国家の盛衰は、その観点から見れば、民主主義がもたらした先進国の資産を、共産主義の専制国家が食い荒らして肥大化している。先進国は生み出した価値の流出を防御しなければならない状況になっている。専制主義国家は、社会の進化が国民の総意ではなく、支配者の欲望になるから、裕福な社会の国家を探しては取り込む政策を行う。結果として、双方の破綻が戦争となってきたのが歴史だ。
 民主主義国家の最大は米国だ。この社会が、民族の異質な価値観で変質を起こし、その民族も多様化したため、当初の黒人対策どころではなくなってきている。世界を民主主義へ導く能力は既に無くなった。EUも英国も同様だ。日本はそれ以上に厳しくなる。専制国家の食い荒らす相手国家が無くなった時が重大だ。この専制国家が作り出す価値は、言うまでもなく多くの社会のものではなく偏向しているから、地球規模での騒乱が起こり得る。科学技術レベルは過去の歴史とは格段の違いがあり、過去の戦争とは異なる事態を起こす可能性がある。民主主義の最大多数の最大幸福はこの時に消滅する。
 専制主義国家の崩壊は、多様な市民運動による民主主義の流れだ。だから、専制主義は、言論の自由を拒否し、情報操作を行う。民主主義社会の存在は、これらの施策の打破だった。ところが、過去の歴史と違ってきたのは、科学技術の高度化により、地球規模の破壊を小さな専制君主が行える時代となった。この現実が、もはや民主主義が勝つという理念を崩壊させている。政治家が、特に老齢化すれば化石になってしまうのは、過去の経験にはまり、事態の大きな変化が見えなくなってしまうからだ。民主主義の信念を大事にしたいなら、何をすべきか考え直すべきではないか。
 

信じたい気持ち

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月11日(日)06時25分14秒
   社会に、人を信じたい気持ちが漲ると、きっと良い環境になり、理想的社会が実現されるのかも知れない。ところが世界は、益々お互いを信じることが出来なくなってきたようだ。民族同士の争いは、いつの世でも変わらない。現代は科学が進歩し、大量殺戮が可能になったので、被害の規模も大きく、双方の不信感も増大する。
 宗教や哲学が異なる社会間の信頼感は薄い。お互いの価値観が異なるからだ。民族の構成員は、己の社会の危機には、身を呈して戦う。日本は、もう七十年以上も民族の為に戦うことが無くなったから、戦う実感は失せた世代になってしまった。各国の歴史を見ても、極めて栄えた国家が長く続くと、文化は栄え、精神的堕落が必ず起こる。そしてその国家は、崩壊するのが殆どだ。日本はそうなって欲しくはないが、それに気付かない政治家が何と多いことか。不信感ばかりの世では、何もよくならないから、せめて自分達だけでも、人を信じようという殊勝な心がけの人もいる。だが、それは空しい。爆発的な世界の流動化は、歯止めがかからず、テロによる死者だけでも、年間千人規模はその数倍にもなることもよくある。それが、かつて日本で国家のためと言って死んでいった特攻隊と同じように、今、現実として姿を変え十年以上繰り返えされている。これが現代の戦争だ。
 そのような人々を救うのは、誰がどのようにすればよいのか。己のことばかりを考え、己を防御するだけになるのか。己の社会さえ安泰であればよいという独自の考えは、過去のものである。それにもかかわらず、他との干渉を避ける国家であればよいと願う愚かさも増える。外の社会を、素直に信じることへの道は厳しい。

 

テレビタレントの衰え

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月 8日(木)07時29分27秒
   先日、ゴルフからの帰り道での話だが、最近のテレビ番組は、見るものが無くなったという。全くその通りで、改めて思うが、テレビ局の収益性重視と、そのスタッフの管理水準が低下してしまったようだ。社会のオピニオンの責任が軽視され、社会の道徳や教育のような理念がないように思える。マスコミが、社会にとって独占的な業務である認識すら失せてしまったのではないか。感動的な良い番組を作るという意思が見えなくなった。見る番組は、BSの方がまだ良いという話だ。チャンネルを切り替えてみたら、どのチャンネルもコマーシャルばかりだったことはよくあることだ。
 私も少し暇になるとテレビをつけてみる。どの番組にも、我々がまだ若かった時に見た顔ぶれが出てくるので、新鮮味がなく結局消してしまう。今の若者がそんなに才能がないとは思えず、隠れた独創的な芸も相当あるのではないかと思うが、どうしてこうも昔の同じ人が出てくるのか。我々と同世代の古い人の芸は、身体も老化で皺だらけで、それを整形したのも見られたものではない。憐れにさえ思える。別に彼らが収入に困ることもない筈だから、テレビ局と業者の癒着のなせることかと考える。
 古いタレント達を誹謗するのではない。彼らの若い時は、苦労に苦労を重ね、新鮮な芸を生み出した才能の持ち主なのだ。それだけに、逆に新たに芽を出す若い才能を封じてしまっているのではないかと危惧している。役者には、歳相応に芸を磨いて素晴らしい演技力のある方もおられる。そのような方々が、ここのところ亡くなられると残念でならない。彼らは、昔の若い姿を復元するのではなく、年令に応じた柔軟な新たな持ち味を開発されている。私は、このような番組を探している。若い視聴者が、古いタレントの芸を見て、それはそれで面白いのかも知れないが、新しいものへの感動を経験出来ないのは寂しい気がする。
 テレビの放映も質が落ちた。安い画像を集めているように見える。歯止めは、NHKが、四つのチャンネルを持っているが、この水準が低下しなければ、民放も工夫をして高い水準を求めることだろう。だが、NHK自体が退化しているように見え、番組の時間をもて余しているように見える。大河ドラマを見たら分かるが、昔の学芸会を見るような役者のレベルだ。良い番組には、それ相当のコストがかかる。だが、一般から料金をとる以上、その質の批判は受けてもらいたい。NHKに関わる優れたタレントを大いに開発して欲しい。
 

動物の習性

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月 5日(月)12時26分38秒
編集済
   朝、陽が昇り夕べに陽が沈む。地球上の動物はその周期を受け入れて住み着き、それに合わせて動物としての生理を進歩させた。人間も同じである。
 人間の社会が複雑化し、また世界が一つになり交流が増加してきた。人は、時間の感覚が無くなり、自然の営みから離れてゆく。自然に順応して調整される人間としてのリズムは失われ、身体は侵され薬に頼る生き物になる。
 人は、陽が沈み暗くなれば眠り、明るくなれば起きて活動する。食事は明るい時に採る。この周期を単純に繰り返せば、動物としての体は対応し健康を維持する。ところが、この周期を無視することが常習化してしまった。睡眠を明るい時間帯にしばしばとるから、夜は眠れず眠りが浅い。食事や飲み物を、寝る四時間前に絶たないから、夜中に何度も目が覚める。それがクセになり、トイレの頻度は増すばかりだ。
 民族はその住む地域の中で体が造られているから、その気候の循環に慣らされている。四季の中に育つ民族は、気温が上がる春以降に繁殖し体を鍛える。秋には、やがてやってくる冬のために、皮下脂肪を貯め、冬の食料不足を補う。南方の民族とは体型も異なる。この原理を無視すれば、体は不調になりまた薬のお世話にならなければならない。世界で活動する人間でも、民族の特徴は本質的に違うものだということを認識すべきだ。
 四季の自然の変動を受け入れられず、出来る限り変動の少ない環境を設けることが、科学の発達により実現する。しかし、他方では、人の自然に対する順応性を無視するために不都合も起きてくる。体が訓練されないことによって、変化にたいする脆弱な身体になる。あらゆる細菌にたいする抵抗力も衰える。その昔、薬が手に入らない時代では、抵抗力を高めるために、冬でも裸体で乾布摩擦を行っていた。夏の暑い時期は汗をかき、体温調整機能を上げた。突然の温度の変化に対する対応力は強かった。
 食べて出して寝る、という習慣が不規則なのが最もよくない。これを、出来る限り習慣化すれば、体は健康体でいられる。体は条件反射のように訓練されるので、行き過ぎなどの変動は自動的に調整され少なくなる。環境があまりにも自由度が増し、何時でも好きな時に変動が起こると、その悪影響は必ず起こる。女性に便秘が多いのもその一つだろう。決まった時間に決まったことをやるという単純なことだけで、体は慣らされると考えれば、薬に頼る生活から脱却できる筈だ。

 

有名人の情緒

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月26日(金)05時54分35秒
   政治家や評論家、実業家などの人物を信頼出来るかどうかを観るには、その人の情の一面をみればよく分かり参考になる。その人の情は、自らが発信した文字に表される。他人が書いたものは、あまり参考にならない。歴史上の偉人をみれば、その人がどんな専門や役職でも、また文系だろうと理系だろうと自筆の何かを遺している。その人の情の部分が遺される詩文や歌集であれば最も参考になる。
 だが、この情を表現出来る世代は、明治、大正時代までで、昭和に入るとそのロマンが消え失せたように見える。能力的に人間の巾が狭くなったのか。昔は、学問をしている内に、立志して為政者たらんとする心がけだったから、その意味では人間の巾は広かった。今は、生まれた時から政治家になる人は決まっているから、勉強が一極に集中し、素養としての教養が不足するのではないか。
 近代のトップの政治家を見渡しても、漢詩を遺したのは吉田茂までか。田中角栄にもそれらしきものはあるが、他はどうなのか分からない。文学で有名な血筋の与謝野氏は、先日亡くなったばかりで私と同年配だが、この人には本当は文学の才能があるのではないかと思っていたが、そのような資料はなさそうだ。政治界の中に入れば、個人の情の素質も忘れ去られるのかと思うと、人間の深みも感じられない。またある人は漢語の文献を愛読しているという話は聞くが、仕事の手段用なのか、自分の創作や創造の域には到達出来ていないようだ。日記程度ものが公開されることはあるが、それは死後だから参考にならない。
 己の情を大事にするなら、文学として優れているかどうかを気にすることはない。そもそも文学の論評なるものが如何わしい。それが評価されたからと言っても、後世に通じる評価とはかけ離れることもある。逆に本当に価値ある文学は、時代を経ても普遍的に人の心に触れ、それで有名になる人もいる。今の文学の作法やきまり事を気にすることなど全く必要ない。未熟さも、その人となりの素朴さにもなる。文学面をして人を批判する行為がネットに流れるが、それは醜い。
 社会に有名な人は、世間を恐れず堂々と詩文を述べればよい。自己流も素直な意思さえあれば、型にはまらない多くの感動を人に与えることだって出来るのではないか。己の心を赤裸々に表しても、自信をもって行動出来る人こそ本当の壮士ではないか。要は、形式や常識は、その本質や精神から外れることが多く、専門団体の縛りにもなるから、それに関わらない自由を楽しめばよいのではないか。他人はそんな人物みて、情的な共感を覚えるのである。
 

レンタル掲示板
/40