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有名人の情緒

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月26日(金)05時54分35秒
   政治家や評論家、実業家などの人物を信頼出来るかどうかを観るには、その人の情の一面をみればよく分かり参考になる。その人の情は、自らが発信した文字に表される。他人が書いたものは、あまり参考にならない。歴史上の偉人をみれば、その人がどんな専門や役職でも、また文系だろうと理系だろうと自筆の何かを遺している。その人の情の部分が遺される詩文や歌集であれば最も参考になる。
 だが、この情を表現出来る世代は、明治、大正時代までで、昭和に入るとそのロマンが消え失せたように見える。能力的に人間の巾が狭くなったのか。昔は、学問をしている内に、立志して為政者たらんとする心がけだったから、その意味では人間の巾は広かった。今は、生まれた時から政治家になる人は決まっているから、勉強が一極に集中し、素養としての教養が不足するのではないか。
 近代のトップの政治家を見渡しても、漢詩を遺したのは吉田茂までか。田中角栄にもそれらしきものはあるが、他はどうなのか分からない。文学で有名な血筋の与謝野氏は、先日亡くなったばかりで私と同年配だが、この人には本当は文学の才能があるのではないかと思っていたが、そのような資料はなさそうだ。政治界の中に入れば、個人の情の素質も忘れ去られるのかと思うと、人間の深みも感じられない。またある人は漢語の文献を愛読しているという話は聞くが、仕事の手段用なのか、自分の創作や創造の域には到達出来ていないようだ。日記程度ものが公開されることはあるが、それは死後だから参考にならない。
 己の情を大事にするなら、文学として優れているかどうかを気にすることはない。そもそも文学の論評なるものが如何わしい。それが評価されたからと言っても、後世に通じる評価とはかけ離れることもある。逆に本当に価値ある文学は、時代を経ても普遍的に人の心に触れ、それで有名になる人もいる。今の文学の作法やきまり事を気にすることなど全く必要ない。未熟さも、その人となりの素朴さにもなる。文学面をして人を批判する行為がネットに流れるが、それは醜い。
 社会に有名な人は、世間を恐れず堂々と詩文を述べればよい。自己流も素直な意思さえあれば、型にはまらない多くの感動を人に与えることだって出来るのではないか。己の心を赤裸々に表しても、自信をもって行動出来る人こそ本当の壮士ではないか。要は、形式や常識は、その本質や精神から外れることが多く、専門団体の縛りにもなるから、それに関わらない自由を楽しめばよいのではないか。他人はそんな人物みて、情的な共感を覚えるのである。
 
 

理想郷の消滅

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月24日(水)15時21分47秒
   理想郷というのは、現実にはあり得ない想像の楽園をいう。どの国の歴史にも、理想郷らしきものの伝えがある。理想郷をユートピアというのは、イギリスの話だ。中国には、桃源郷の話がある。そこで過ごした人が、再び訪れようと探し求めたが、二度とは行けなかった世界だ。
 日本のお伽話の竜宮城もその一つだ。古くは旧約聖書にエデンがある。人が実世界で、苦しく満足出来ない故に、理想的な社会を夢見るのだ。どの民族にも共通して、それぞれオリジナルがあるというのは面白い。しかし、理想郷は想像の社会でありながらも、その社会への試みは行われたに違いない。だが、悉く滅ぼされてしまう。何故か。それは楽園であるが故に、戦うことを知らず準備もないからだ。理想郷には必ず破壊する者は出てくるし、外部からの侵入によっても滅びる。理想郷かどうかは別にしても、マヤやインカのように、全文明が抹殺されてしまう。人間がどんなに争わない社会に憧れても、それに到達出来た社会は存在せず、未来永劫そのような理想郷は来ない。それどころか近代の技術の進歩は、熟考する間も与えない程に、たちまち民族を絶滅させる能力を持ってしまった。理想郷は遠のき、夢のまた夢となった。
 歴史上の理想郷はともかくとして、多少事態は異なっても、現代でも同様な盛衰は続く。結果的に、民族は武力を備えて社会を守ろうとする。自国の価値観を理想郷と思い、守る為に他民族を滅ぼす。共存という理念は殆ど機能しないのが人間社会だ。どこかに絶対的制裁機能がない限り、際限なく武力の強化が行われる。
 日本は、米国に保護された子供のようなものだから、まだ嘴の青い鳥たちが諍いを起こしているような図が、何時も目に浮かんでくる。明治の夜明けは厳しかった。明治の時代の世界と、今とはどこが違うのだろう。
 

惰性に注意せよ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月22日(月)05時39分59秒
   高校の物理で、ニュートンを習う。慣性の法則を思い出した。物体に力を加えると、その物体は動き続ける。これを惰性とも言う。社会現象では、特に物の動きは、止めても急には止まらず、その動きがしばらく持続することを惰性と言う。
 イデオロギーの領域で、一度教えられ共感すると、そのエネルギーは持続する習性があるから、それを変えようとしてもなかなか変わらない。変えようという意識の前に、変えるという必然性を、ことごとく排除する力学が働く。この惰性はなかなか止まらない。惰性が悪いのではないが、方向のベクトルがどうにもならないと偏見が起こる。世の中の多様性の受け入れが疎かになる。
 政治の世界では、政治家はその理念に従って党を形成する。ところが、時代は加速度的に変化を起こす。何年か前では尤もらしい主張と思えたものも、時代に合わなくなる。惰性の強い傾向の政治家は、まるでドン・キホーテのように見えてくる。議論をしても、議論の土俵が既に違ったものになるから、議論ではなく誹謗の感情論になる。党の憲法のような党是があるなら、現実に矛盾だらけの党則や意見を放置するのも惰性の一種だ。それを、宗教的な信仰に近い掟として、屁理屈を言うのも惰性の協調だ。
 人生の働き盛りを、フルスピードで走り、企業などの価値観を受け入れると、定年になっても価値観が変化し難くなり、惰性の日々を送ることになる。人生の価値観は、本当は多種多様なのだが、そこへ踏み込むことに抵抗を感じる。既に老齢期にある方と話をしても話題が偏ってしまう。そのことに本人は違和感がない。それで終わる人生もある。だが、どうせ生まれたからには、その結果の良し悪しに拘らず、未経験な方面へ踏み込む方法もある。その場合、惰性を止める柔軟さがなければならない。
 人はそれぞれ持って生まれた気質がある。一度納得した習慣は、その根拠が正しいと思えば、意識の有る無しにかかわらず惰性の域に入る。人のふり見て変えられるかどうかが個人差となる。良い習慣かどうか、または続ける価値があるかどうかが常に議題にある人は希にしか居ない。
 今年になって、今まで別の環境にいた孫娘が我が家に住むようになった。当然のことながら、生活の習慣が違う。それでも、我が方は、その習慣に合わせることはない。本人がどう考えるか、血筋は同じなのだから、その成り行きを見守っている。
 

武力の真意

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月21日(日)08時09分37秒
   武力は何故持つのか。それは戦うために持つ。戦うということは、戦争をすることだから、負ければ死ななければならない。極めて明解だ。ところがそうではないと思っている人がいる。軍隊の中でも、日本の軍隊ならば、死ぬことはないと思っている人もいるかも知れない。世界中、軍に属する人は、国家や他人のために死ぬこともやむを得ないと考えるのが普通だ。日本は、いつの間にか世界の常識から外れ、軍用の役で事故が起ころうものなら、軍をつぶす意見すら出てくる。それもこれも憲法を現実から遠ざけ、なおざりにするところから全てが始まった。机上の空論の学園論争の現象を惹き起こした。
 武力は使いたくないが、民族や国家を他から守るためには、武力は無くてはならないものだ。戦うことも辞さない決意が要る。世界の知恵が、二つの大戦により、少しは慎重になったが故に、武力の行使が控えられる場面が増えただけだ。余程の武力を増強し、国土を拡大する意思がない限り、武力はただの見せかけになるが、それでも戦える前提がある以上は有力な抑止力や政治力になる。
 自国防衛のために武力を持つと言われるが、一時代前の武力ならば、それは今の憲法のような概念で、何とか解釈出来た。即ち、問題の戦いは自国本土内という、物理的制限が意味をもつ。ところが、近代の武力は相当に進歩し、また武力の範囲もハード、ソフト共に激変した。確かに、人は他国へ行って戦争をしないが、自国の防衛のためには、他国の領土内で、国家の代理戦争と言うべきテロを含め、武力行使が自由に出来るようになった。それが最も効果的な戦略となるのだ。見た目には、防衛なのか侵略なのかは全く分からないから、防衛という言葉の定義も陳腐化しつつある。現実に無人機が他国へ侵入し、国の機能を攪乱する。宇宙空間からの妨害も可能になった。査察などは日常事だ。専守防衛という言葉が陳腐化し、意味不明の様相を呈する。専守防衛という言葉は、少なくとも武力の抑止力を著しく失わせ、戦わない軍隊を思わせる。武力は、抑止力がないものは意味がない。軍隊は戦う前提があり、戦えば勝つという前提があればこそ抑止力効果を発揮出来る。
 もはや武力を持つ持たないの議論は消滅している。どのような武力を持つかが国家の強大さになる。世界の秩序を維持したいと思い、またその為の役割を果たしたいと思うなら、その後ろに強大な武力がなければ進捗は困難であり、或る一国の我儘を抑えることは出来ない。国家間の連携の政策もあるが、それは武力の大きい国家の主導になる。結果的に小国の利益は限定的になる。武力が強大であるということは、その武力が何時でも使えるという体制と、その意思が示されていることが基本的な背景としてあることが前提だ。国際秩序のために戦う武力は何処にあればよいのか。知っての通り、国連軍は主人のいない戦わない軍隊であり、抑止力を失ってしまって久しい。そもそも、この組織の理念が幼稚過ぎて迷惑でさえある。
 

戦わずして勝つ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月20日(土)16時05分6秒
   殆どの方が既に承知の孫子の兵法だ。正しくは、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と書かれている。解説については、あらゆるところで、企業や経済戦争の場面に適用例がある。真意は、民族や国家間の戦争だ。
 日本国家の戦力については、色々な意見が飛び交う。憲法の不備がいよいよ現実化し、その対応が迫られているからだ。今から2500年も前の一兵法者の言が、今なお新しく重用されるのは、それに真理があるからだ。真理とは、その場その場では、意見が分かれても、最後はそこに行き着くことを表す。ただ、そうある為には、何をどうするかで対応は違う。なかには、まるで独り善がりの浅薄な意見もある。
 今、世界で発生する諍いの類を見れば分かる。ある国が他の国を支配する意図を持てば、周到な準備により、その社会のルールに従って侵入する。侵入された側は、気が付けば動かし難い勢力で社会の価値観を操作される。そこで、これに対し強制力を発揮せざるを得ない状況に追い込まれる。ここで小規模な戦争が起こる。
 武力行使が少しでも行われる状態が起こった時が、強国の支配出来る好機だ。勿論、その時には、相手に対し同等以上の戦力を持っていることが前提だ。一般の方々にはなかなか理解が難しいが、ここに戦わずして勝つ真理が作用する。兵力を持たずにいれば、戦わないで済むというのは、大小を問わずこのような現実支配に負け従うことに他ならない。これは考えれば分かることだが、今世界では実際に起こっている。
 今の憲法は、負け従わなければならない国家を指向し、その相手が米国であることを誰でもが知っている。米国が強大でなくなるその現実が今やってくる。中国がこれに代わる。この国の問題は、民主主義の理念が全くないということだ。日本は、相変わらず従属型の国家を維持するのか、日本国家自体を強大にするかは新憲法のあり方による。戦わずして勝つということは、簡単なことではない。戦ったら必ず勝つという前提がなければ、この戦法は成り立たない。善の善というのは、言うべくして重い意味を含んでいる。戦わないというより、戦えない民族になりたいならばこれは論外だ。幸か不幸か、日本は、世界でも戦える民族の評価と歴史を持つ国家の一つだ。この意味を各人がしっかり考えることだ。しかし、いつも最初から負の思考型の人には向いていない問題だ。

 

地方過疎化対策

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月15日(月)13時35分20秒
   日本の人口は減り続ける。更にその影響は地方に厳しく、益々過疎化する。地方に住む方々は、何とかして地方を魅力あるものにし、人を呼び寄せようと懸命に努力している。だがその効果は薄い。祭りのようなイベントや移住のサービスなど、工夫を凝らしても長続きせず、高齢者の移住ではどうにもならない。全国の半数以上の地方都市は縮小してゆく。
 何か知恵はないのだろうか。半世紀前は、日本の経済が活性化し、人口も増えた。都市にも多くのインフラ投資が行われ著しく発展した。だがその繁栄も今は昔、何故こうも変わらなければならないのか。本当に落ちぶれる必然性はあるのか。
 人は発展する可能性を秘めた地域に必ず流れてゆく。ということは、過疎化するので発展しないのではなく、発展の夢がないから過疎化する。日本の国は、そんなに夢のない国になってしまったのだ。確かに、世界の後進国は高成長を続ける。魅力あるように見える。先進国の成長も大きい筈だが、相対的に見れば止まっているようにしか見えない。ここを少し掘り下げてみる必要がある。
 社会が大きな発展を遂げると、同時に大きな不合理性を固定化してしまう。これらが既得利権や格差と言われるものだ。一部の人には好ましくても、他の多くの人々には失望感が内蔵する。だから、このような悪癖を除外する施策を懸命にやらなければ、その社会は嫌われる。例えば、人の為、社会の為と言って、国も地方行政も個人へのサービスをする。公的資金を使い、担当を付けサービスをすることは良いことだと思い込む。公的資金が使われていれば、サービスが行われ仕事をしていると思い込む。ところがこれらの行為は、殆ど無用のものが多い。全く無用とは言わないが、極めて投資効率の悪いものだ。およそ良いアイディアであっても五年も経てばもっと良いものは出てくるから、期限付きにしなければ、無駄はあふれ税は高くなる。社会に意識がない内に、人に頼る習慣が普通になり、社会の活力は無くなる。日本には、そのような悪習が溢れるほど溜まっている。真に自力を生かそうとする人達には、全く馬鹿々々しい限りだ。
 国も地方も為政者は、専ら分配の仕事しかしていないので、価値を生み出す仕事の原理に疎い。その弊害の最たるものが補助金の使途だ。高度成長の陰に隠れ、救済の大義名分が無気力な社会をつくる。ここに巣くう人々が増えれば、この社会は硬直し、規制は悪平等へ発展して動きがとれなくなる。残念ながら、日本の魅力が薄れたのは、殆どこの類であり、言わば扶養家族の増大だ。
 また農業問題になるが、これは規模も大きく最も活力を削ぐ問題となってしまった。地方の過疎化はここにあると言ってもよい。本来なれば、日本は農業国になれるにもかかわらず、世界でも後進国になってしまった。農業人口はもっと減ってもよい。但し、高度化技術により、単純作業は全部機械化、AI技術により、多様化した農業製品は増大してゆく。国家の食料自給率も上がる。ここに若者の精力的参加が起こるのだ。地方は、最も裕福な自然を愛好する環境となり、そのような人生を選択する者は増加する。そして、老人農家はなくなる。コメ農業だけではなく、水産、牧畜なども同様だ。日本で産業と言えば、すぐ工業になるが、そうではなく農業のような一次産業が発展の鍵を握っている。直ちに、戦後のあらゆる規制を撤廃して自由化すべきではないか。特に土地売買に関する規制や税のあり方は改革が必要ではないか。保護を視野にいれた規制は、大方は活性化を阻害する。農業製品の質がよく、安価なものを供給出来れば、その製品は国内需要を喚起し、市場は拡大する。世界市場を射程にした大きな魅力をもつ。
 地方の過疎化は新たな社会を生み出す源泉にもなる。地方は過疎化しても、その過疎地には若い世代が活力を持って過ごせる環境を生み出す。その出生率も必要性から向上する。通信技術の進歩は、都会を必要としなくなる。新しい地方像が生じてくる。何事も、その本質をよく見て、それに沿った改革を進めなければならない。以前と同じでなければならないものはない。日本での生産性向上の改革が進めば、日本のコスト構造は自力で下げる方へ進む。相対的に、個人の収入は上がり、高度経済成長とは異なる指標を視野に入れる必要が出てくるのではないか。

 

長幼序あり

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月10日(水)06時24分55秒
   論語及び孟子の中に、長幼序ありという思想が出てくる。儒教の仁の基本にもなる。孟子では、五倫のなかの一つである。その意味は、年上の人には尊敬の念をもって振る舞うことだ。恐らく、儒教嫌いや、儒教を解さない信仰を持つ人達が、最も問題にする思想だ。日本の現代でも、すでに教育者自身が儒教を嫌うから、世代の移りと共に、考え方は変化しつつある。
 国家はそれぞれ特有のモラルで社会を形成する。日本はおよそ1500年前から、儒教の思想を持ち続けながら社会を形成してきた。儒教思想は、紀元前六世紀の孔子により広められ、紀元前四世紀の孟子により更に進められた。当時の中国の乱世のなかに生まれた思想だ。中国や朝鮮も当然のことながら儒教国と思うかも知れないが、実態はこれらの国は、国自体が何度も崩壊し、儒教のような歴史は徹底して壊したので、歴史自体が無く、恐らく儒教の本筋を正しく伝える思想を持つのは、世界では日本だけだ。中国は、古代には優れた思想家がいたにもかかわらず、その歴史は民族の抗争により、国家が入れ替わり、決定的な断絶となったのだ。
 人の社会が大きくなり、国家規模になる社会が、突然の為政者によって作られるものは弱体だ。人の体が、小さな細胞からなり、それが相互に作用して大きな機能を果たすように、社会も先ず一番基礎になる集まりが大事なのだ。それが、先ず家庭であり、近隣の社会だ。その最も小単位の秩序をどう維持するかの一つに、この長幼序ありという言葉がある。
 少し古い話になるが、私が初めて米国に出張した時、ある職場で、若い人が自分の親ほどの年齢の人を、私に友人だと紹介した。その態度が、同窓生のように、恐らく給料も同じなのだろうが、友人というのには違和感があったことを思い出す。親しさのなかにも礼儀ありというモラルが全くない。日本もここまで極端には変わってはいないが、若い世代では、どこの誰とも分からない年長者にどうしてという人は増えている。年長者が悪者でも尊敬するなどとんでもないという人もいる。
 子供の無垢な年代に大きな影響を持つ教育者でも、恐らく長幼序ありの思想は理解していないかも知れない。この言葉のなかには、社会で少しでも他人より生命を持続出来た経験者が、たとえどうあれ、未熟な年少者はその先輩の隠れた事情や努力に敬意を表すという、些細な心の表れを振る舞いや言葉にすることなのだ。そのことにより、年長者も己を振り返り、新たな生き方を模索する動機にもなるのだ。これが、人の関係を穏やかにする思考なのだ。これを個人の自由や束縛に関わる問題にしたり、果ては封建的権力の根源だというのは、あまりにも偏屈で不勉強ではないか。
 国家の道徳、価値観や歴史の重みは大きい。他の国家がこれを破壊しょうとしても出来るものではない。国家が長く持続した歴史はその実証である。人が、その生まれた社会で生き続け、今があるということは、ごく普通のことと思いがちだが、別の社会ではそれは必ずしも普通ではない。その価値を認識出来るかどうかは大事なことなのだ。その社会において、新たに生を受けた子供に、その社会の価値観を教えるのは先輩の義務だ。学校教育で五倫の徳育を行うのは重要なことだ。因みに、改めて五倫とは「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」ということだ。その価値が分からなければ、教師にはなり得ない。今世間で、共存関係にある人達が、とんでもない事件を起こしたことを知るたびに社会の欠陥を思う。社会に属する人々の秩序は、幼児教育の時期に理解し、そのことは生涯の価値観の基礎になる。教育が如何に大事かを考え直した方がよい。
 

新憲法の制定Ⅱ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月 5日(金)06時25分10秒
   新憲法制定の目標時期について、本年2月21日付でこの欄に記事を書いた。今、政府の発表で、憲法改正の発布目標期日を2020年にしたいとの意向が示された。実は、こんなに早く意思表示がなされるとは思っていなかった。どうせぐずぐずと決められないだろうと思っていた。改めて、政府の活動能が優れていることに感服した。海外首脳との交渉頻度などをみても、従来とは次元の異なる活動であることにも敬服している。首相が体調を壊さないことを願う次第である。また、若い世代は政治家としての先輩の行動をしっかり参考にして育って欲しい。また、新憲法については、この機会を生かして、如何に緊急性があるかも知って欲しい。
 今の時代であれば、明治時代とは違って、憲法についての国民への浸透や、通信も飛躍的に違っているから、検討機関を長く設定することもない。長くすれば必ずしも良くなるとは限らない。少し議論すれば、今の憲法の不備ははっきりする。憲法改正というより、前文を含めると新憲法と言った方が適正になる。他でも言ったが、どんなに努力しても、未来永劫欠陥のない適正な憲法は出来ない。だから改正がある。次世代がその能力を発揮して決めればよいことだ。今の憲法で過ごした世代は、それはそれで良いが、次世代に責任は持てないから、干渉は控えめにすべきではないか。
 新憲法は、将来の日本国家のあり方をしっかり描けば、自から詳細は決まる。禁止項目ばかりが先にあるのではない。国家権力を規制することは大事だが、力強く改革出来る権力を持たされない指導者も意味がない。政治権力を人に委ねる本質を良く考えることが必要だ。日本国家像をはっきりしなければならない。国際社会の中で、他に迷惑をかけない程度に協調しながら従ってゆく国家なのか、或いは地球上の国家群や民族の規律や、地球環境を含めた運営のあり方を先導してゆく国家を目指すのかでは、憲法のあり方は当然異なる。従って、過去を引きずる世代の意見は、米国依存の世代だから、そのことを虚心に反省して良く考える必要がある。同じ現状維持でも、それがどんな根拠に基づくものか喝破することが必要だ。次世代は、己れ自身の進退をかけ重要な時期にあることを認識して欲しい。
 

附設高等学校

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月 4日(木)07時11分56秒
編集済
   附設高等学校は、全国的にもその名を知られているが、正式に書けば久留米大学附設高等学校だ。私が卒業して六十年になるが、当時は創業間もない時期だったので、校舎は兵舎の活用で貧しいものだった。今は、場所も変わり、男子校から共学へ変わっている。校舎も、当時とは全く違う設備の整ったものになっている。
大学受験の成績は全国でも常に上位クラスだ。戦後からの学校としての身なりは、著しく贅沢になったが、研鑽の精神は脈々として継続しているようだ。
 この学校は、戦後の荒廃の中で、日本の国家が唯一持てるものは人材であり、未来の為に育てるのだという精神が漲っていた。教師陣も、校長をはじめ所謂さむらいといわれるような個性があった。次世代が自信をなくし、何でもアメリカに頼り、また左翼思想で日本の歴史を忌避するような思想にならないような鍛え方をされた。当時は受験地獄の時代で、附設は学校自体が受験校と言われ、教育も受験至上主義のように噂されていた。しかし、その教育を受けた我々は、確かに地方から優れた素質の生徒にあふれ、競争は激しかったが、校風は浪漫気風あり、バンカラありで自由闊達だったように思う。即ち、教師達が、明治以来の日本国家としての自尊心を失ってはいけないという気風があったから、それが生徒にも浸透していった。要は、知識の前に人間や人格をつくるということだ。従って、同窓生の思想は国家意識がしっかりしている。
 私は、年度の行事のように毎年、同窓の集まりに出かけるが、その同窓は小中学、高校、大学と三つの集まりがある。小中学の同窓は、殆ど農村育ちが多いので、政治的には現与党支持が多い。大学の同窓は、当時はどの大学も左翼思想の教育者が多かったので、社会主義的思想への傾倒がある。大学の全学連が大荒れした時代だ。この世代は、今でも憲法改正問題に対しては、否定的であるという特徴をもつ。高校の同窓は、また少し違う。高校の国粋主義的思想と、その殆どが多方面の大学へ進学したため、その後の大学の社会主義的思想とが入り交り多様化している。バランスしていると言った方が良いかも知れない。
 今になって思うのだが、教育の現場の主目的は、勿論知識を高めることだが、実は社会に出てみると、それらの知識よりも遥かに、物事への対応力の方が重要になる。対応の柔軟性や創造性などの、人間性のあり方などが、どの様に鍛えられたかだろう。当時の高校時代に、それ程意識にもなかった教育者の人物像が、意外にも体の何処かに住み着いているのだ。本来、教育とはそういうものかも知れない。はたで見れば、附設高校は、無味乾燥な学校ではないのかと噂されたかもしれないが、実はそうではなかった。やはり、教師の人間性からみれば、どの教師も個性は違っても、それぞれ尊敬出来る人達が多かった。最近では、教師の質の問題が問われる事件が起きるが、教師は、豊富な知識を持つ前に、人間性や社会性をしっかり持つ者でなければならない。生徒は、意識のあるなしにかかわらず、その人間性を取り込んでゆく。そしてそれは、生涯を通じて物事の対応に影響を及ぼす。
 そのような意味で、我が母校には、優れた教育者をどんな対価を払っても確保して欲しいし、そのことが、次世代の人材育成に、今後とも続くよう願っている。学校教育の真の評価は、目に見える数字より、はるかに大きな基本の部分にあるように思う。

 

是々非々

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 5月 2日(火)06時31分26秒
   物事は、全て百点満点のものは少ない。政策の立案も必ずどこかに欠陥がある。その欠陥を承知しょうとしまいと、方策の基本が有効ならば、恐れず妥協により実施するのがよい。日本は民主主義の国家だから、政策に欠陥があり、実施した結果が思わぬ方向になっても、それを修正することが出来る。だから、立案時の議論はあっても、政策は是々非々で良いのではないか。
 何故このような当たり前のことを述べるかと言えば、今の政界では、この当たり前がそうでは無くなってしまっているからだ。それらの政策の可否は、言ってみれば反対のための反対が常識化し、政策の欠陥の危惧を拡大し葬ろうとする。即ち、執行側ではないから、無責任で対案がなくても反対すればよいという思考になっている。政権獲得のための世論操作が主眼なのだ。何でも反対の政党は、もともと政治の理念が違うから何でも反対でよいが、政権を担う政党は、多少の違いはあれ、共有する部分は多い筈だ。政権を取れる二大政党という言葉をよく聞くが、是々非々が出来ない政党が政権を取れることはない。先の民主党のように、三年余の政権を維持出来たのは、その主体がもともと自民党所属の主力がいたからだ。政策の連続性は当然のことながらあると思わればこそ、国民は政権を委ねる。野党が、何でも反対している姿では、政権のイメージは何処にもなく、政権を依存することは出来ないのである。
 今の民進党の中にも、政権を委ねることが出来ると思われる人物が居ないではない。しかし、その党の役職者になれば、言うことが何時も対抗すべきと考えるためか、与党に同意してもよいと思われることは全て無くなり、その人の政権執行能力のイメージがどんどん下がってゆく。世界情勢と日本の国家のあり方に対する政策に、革命的な大きな変化を期待などしない。政策のどの部分の方針が、どれほど異なるかを明確に出来ればよい。それには、本質的是々非々を正面から主張できる体質が要るのだ。
 マスコミを動かす世論戦術が悪いというのではないが、その影響の大きさに惹かれてしまうようでは、政治家の威厳を失ってしまう。そのような政治家が党のリーダーになれば、党自体の評価も落ちる。例えば今の憲法では、日本国家は、既に世界の中で指導力を発揮出来ないことは明らかだから、次世代の為に憲法はどうあるべきかを決めなければならないという政治家は多い。ところが、党内政策では異なってくる。党利党略の思惑も絡む。以前に、政党は憲法を改正するかどうかで別れた方が明確だと、この欄に述べたが、それが今は現実となって離党する人が出てくるようになった。もっともっと、党は再編が進む。政治家は、やはりその人の持つ理念だ。国会議員は、己の専門はどうあれ、その基本には国家としての理念が人一倍なければならない。この素養が幼稚過ぎると、国家も社会も退化してゆく。政治は、個人の短絡的発想や感情では大局を見失い、大勢の国民を惑わし不幸をもたらす。従って、常に原点に返り、問題の是々非々を判断すべきではないか。
 

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