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米軍撤退は現実

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月20日(木)06時01分21秒
   誰もが、米軍駐在の政治や社会の現状が当面続くと思っている。当面というのは、いつ頃かと聞かれると、殆ど答えられず戸惑う。十年二十年先と思っても、その根拠も保証もない。政治が意思決定をすれば、米軍は三年もあれば撤退は可能だ。そこで大慌てになり日本国家の体制は崩れる。だから、期限を想定した周到な計画が必要だ。米国は、既に世界から離れ独自の道をゆく。
 世界的に見て、日本は有数な実力を持つ国家だ。その国家が、未だに国内に治外法権の軍隊が存在するというのは、極めて異常な状態なのだ。強いて理由をつければ、近くに平和条約を結べない国家があるということで、その解決を自主的にやれていないことだ。更に、その問題は緊急性がないと、己に言い聞かせながら、問題を先送りしているのが現状の日本国民なのだ。
 政治家は、身の周りのことばかりを国民に訴えて、国家の本質的、長期的基礎を語ろうとしない。語らないから、その問題の重要性や緊急性が国民には理解出来ない。政治家の質が落ちたというのは、答弁や立場の常識が狂っているだけの問題ではない。政治の大局観を身につけていないことが問題ではないか。そして、マスコミ界も目先の話題ばかりに終始し、日本の世代の重要問題は金にならないという。
 米軍は、いつ撤退しても何の不思議もなく、ごく当たり前の事だということを認識すべきだ。朝鮮半島事情は、もう既に米国の干渉を期待する時期ではなくなっている。何故なら、中国は南北両方の国に関係を強め、影響力を行使出来るからだ。日本としての米国との同盟を否定しているのではない。韓国の情勢は、もはや米軍が日本に駐留する必要性がない事態へと動いている。日本国としての意思が薄弱なのが問題だ。事態の動きや変化がある時、全ての物事はそこから始まる。この原点に立てない古い政治家は、引退の時期ではないか。
 
 

文章が短い

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月19日(水)12時39分15秒
   最近の若者は、短い文章しか読まなくなってきたのではなかろうか。例えば、ツイッターの回数が多く、文章は語り言葉で短い。言葉自体が短く略語化している。漫画もただの娯楽ではなくても、絵と短文で構成されている。語句の用い方も、会話の常用語句に限られる。人と人との接触が少なく限定され、多勢との接触はスマホ会話になる。このような生活様式に費やす人生の時間が増大している。
 本を読むという習慣が減少しているのではないか。気になるのは、十年程前までは、比較的大きくない本屋でも、多種の本を揃えていた。今は、小さい本屋の大部分のスペースは、コミックに占領されているので、私は、最近はこれらの本屋を訪れることはない。大きな国道沿いでも、スペースは広くても、基本的スタイルは同じだ。大都会の中心部に位置する本屋だけが、多角的に期待する本が揃えられている。これらの状況は、ネット販売の影響を受けるものだが、需要構造を示すものでもある。
 確かにスマホは、情報の伝達や、情報の取得に良いのかも知れないが、それで一通りの意思疎通に終わってしまう弊害もあるのではないか。先ず、長い文章への抵抗感が習慣的になり、文章を読むことが出来なくなる。読んでも内容を適格に把握出来なくなる。また複雑な問題を文章化出来ない。文章創作能が発達せず、表現の創造力は生まれない。文学の基本能力、専門分野の読解力も向上しない。歴史的資料に属する哲学書は読めない。面倒かも知れないが、人生の巾を広く享受するためには、文章能を鍛えるべきではないか。
 人が毎日自然と密着しながら過ごした時代は、今はもう絶望的に得られない。自然の心を写すには、長文には長文の奥深さがあり、短文にも表現の芸術性がある。そのような、多元的楽しみやゆとりを大事にすべきではないか。

 

経済高度成長の実態 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月18日(火)05時14分39秒
   世界の国家の中で、日本が先進国と言われるようになったその原因は、五十年以前からの経済の高度成長があったからだ。では何故高度経済成長があったのだろうか。それは、幸運としか言いようがない。先の大戦で、世界、特に米国は、日本のような国家は今後永久に繁栄して欲しくないと思い、またそのような政策を実行した。だが、幸運だと言うのは、日本民族に多少の能力の下地はあったにせよ、それ以上に世界の情勢が、日本が地理上において重要な存在となったからだ。
 経済というのは、その国にお金が集まることだ。敗戦で全てをなくした国が、簡単に復興出来るものではない。ところが、そこに起こった東西の冷戦構造により、莫大な金が集中的に投下される事態がきた。先進的国家の政治システムを、ある程度有していた日本の復興は質実共に早かった。これが、高度成長の足がかりとなった。政治の主導を、基本的に米国に委ねることにより、この成長スピードを害するものはなかった。そして、必需が減退する時期に入ると、大衆にゆとりの手本として、使い捨ての悪習を宣伝し消費を促進し、人並みという模倣を流行させた。他方では、大衆の未熟な金融能力を貯蓄奨励で左右し、公的な運用をほしいままにした。これが、日本の経済の高度成長の実態だ。
 日本が、世界の中で実力水準が高く、能力があったから経済が発展出来たと思うのは間違いであり、それを支えた高齢者世代が、特別に優れていた訳ではない。今後、世界の中で、国家の水準が高くありたいと思うなら、日本人は相当努力しない限りその目標を極めることは出来ないだろう。だからと言って、日本人にそのような能力がない訳ではないことも承知すべきだ。
 

戦争はいやだ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月15日(土)06時06分6秒
   テレビで街中の声が報道される。軍備に関わる環境になると、若者大衆の「戦争はいやだ」という声が報道される。大衆の意見は、率直に自分の気持ちを表現しているのだから、何の問題もない。ところが、マスコミの問題は、その捉え方にある。軍備は戦争をするためにあるから、軍備はいやだと同意義にとる。取材したマスコミの思惑が単純だと、大衆の一言を、己の都合に合わせて解釈する。そして何のことはない、自分の意見を得意になって述べている。なるほど軍隊がなければ戦争にはならないが、軍隊があっても戦争になっていない国もある。戦争をしない軍隊はないが、戦争をしなくて済む軍隊はある。
 少し別の角度から、人というものを捉えてみる。素直な子供の頃に、学校で社会生活が始まると、大半のところでいじめ問題が起こる。これは、子供が成長し社会を知る過程では大事なことだ。学校は、自校ではいじめはないというところもあるが、これは実態を捉えていない。社会の中では、必ず小集団が起こり、その集団の存在価値を示すことが多様化するのだ。だから、社会性に不得手な子供の悲劇は起こる。仲良くしろという指導や、社会規制などの教育をしても、個人の持ち物を詳しく調べてみればその中に凶器もある。国が違えば、さらにその持ち物は異なる。戦後の私の中学時代でも、当時は折り込みのナイフを所持していた。戦う時は、それを持つ。ただ、今と少し感覚が違うのは、人を傷付けても死に至るような部位はやってはいけない掟のようなものはあった。余談だが、その型のナイフはもう店では見られないから、老年になって関西の田舎で見つけた時、懐かしく、思わず買ったことがある。勿論、そのような経験とは無関係な者が大半である。だが、社会の中には必ず存在する暗い部分も同時に起こるのだ。これが社会の本質で、国家の問題も同じだ。
 無抵抗主義という意見があるのも承知している。キリスト教の信仰からくるものもある。理想としては議論の余地はあるが、歴史的には無抵抗主義が平和をもたらすことはない。今後も、ほぼ百パーセントあり得ない。小集団は必ず強い集団に統合されてゆく。
 戦争はいやだという気持ちは、殆どの方に共通なものだ。これは極めて大事なことだ。というのは、戦争を厭わず、己の欲望を充たすことを秘めている者もいるからだ。その人にとっては、それが平和の追求だと信じる論理なのだ。だから、戦争はいやだとは言っても、その裏に何もない感情だけの場合もあれば、無抵抗主義で軍備を憎む場合もある。更に、軍備を強大にしなければ、攻められる戦争を回避出来ないという考えもあれば、大国の主義に従えという意見もある。だから、先のマスコミの捉えかたの問題は、ただ一つの言葉の多様性を全く知らないレベルで、自分の狭い了見で語る者が多いことだ。マスコミ各社は、主義主張までからむことも多い。
 大衆は、一般的に物事を深く考えないから、気持を率直に言える。そして、問題にたいして適切な処置を望んでいるのだ。マスコミも政治家も、まるで我田引水、自説が見え隠れする報道は止めて欲しい。問題なのは、その自説を大衆の意見のように報道し、あたかも報道が正しいことを装うことだ。

 

年齢と歌唱力

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月12日(水)06時06分34秒
   歳をとると例外なく歌がうたえなくなる。プロのような訓練を積んだ人でも同じだ。個人差はある。プロ歌手が歳を取り、過去の人気を忘れられず、好きな歌をうたい続ける姿には、何とも言えない一種の哀れがある。それが分かっているから、唄わないプロもいる。他方、ただの惰性で良くもない新曲を、自己満足なのか、権力なのか、毎月公開するプロもいる。
 歌は子供の時から好きだから、歌を覚え、人前でも唄うことに躊躇はなかった。我が人生の歴史には、いつも歌がある。優れた歌を聴くというより、まずくても自分で唄うことに意義があると思っていた。生まれつき唄うのが得意な人もいるが、私の場合は下手なのに、唄うのが楽しいのだ。多くの方と歌を楽しんだが、明らかに先天的な音痴の方でも、人前で唄い楽しめることも知っている。
 八十歳に手が届きそうになって感じることがある。それは、歳を取るとどんなに頑張っても、満足に唄えない体になるということだ。毎日練習を積むプロでさえ明らかに下手になるのだから、通常は唄わない一般人が、まともに唄えるのは無理なのだ。私のような下手な歌でも、自分なりに唄った後に満足に唄えたかどうかという感覚はある。予期しない時に、良く唄えたという実感を得ることもある。少し唄い込むと、発声は容易になり唄いやすい。だが年齢には勝てない。
 二三ヶ月前から、どうしても唄えない感覚が出てきた。よく考えると、声帯は年齢と共に老化するから、いわゆる老人の声に移行する。それを加速するのは、体の肥満度にも影響される。老人になると、体の筋肉が落ち痩せるから、声帯も閉まりが悪くなる。特に高音部の発声が出来なくなる。よく声に艶があるという言葉を聞く。それは、声帯の微妙な制御ができる能力のようなもので、声を貯めて引っ張れるのもその一つだ。それが、声帯の老化により、抜けてしまうのだ。太っている人は、脂肪の影響もあり声帯を絞ることが有利だから、唄える人は太り気味の方が多い。
 老人の声というのは、男女の区別なく、典型的には低音だから、誰が聴いてもすぐ分かる。出来るだけその域にはなりたくないので、よく唄うことにしているが、半月も唄わないと音がまともに出なくなる。体の筋肉の衰えを防ぐ体操と同じように、喉の筋肉も鍛える必要があることを改めて感じる。
 

国家の文学

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月10日(月)06時43分53秒
   国に優れた文学があれば、世界に翻訳されるから、多くの方が豊かになる。文学を生み出せない国家は、貧しく哀れだ。歴史上繁栄した国家は、よい文学を残しているが、中には全く見るものもない国家も存在する。例えば、中国では、歴史上、元という国家がある。国家を支配した民族の文化が低いので、優れた文学はなかった。後の世代が評価しての話だから、当時の人々は豊かだったかも知れないが、客観的には人生の多岐の豊かさを必ずしも経験出来たとは言えない。そのような国家は蓄積がないからいずれ衰退する。
 欧州では、古代から多くの文学者や哲学者、芸術家がいたから文化は栄えた。中東はペルシャ以来、文化が栄えた国家は少ないのではないか。大衆の学問としての識字率なども影響する。日本は、歴史的に識字率が高く、古代から文学は栄えた。近代に入り、明治になって国が解放されると、一挙に文化の水準が高くなり得たのもそのお陰だと思う。
 歴史的にそんな思いをしながら、現在の国家の豊かさはどうなっているのか疑問をもった。今、世界には、ノーベル文学賞というのがある。この賞を戴く国家の文学水準は高いのだろうが、だからと言って、戴かない国家の文学水準が必ずしも低いとは言えない。それは国の言語が異なり、その文字がもっている文学観自体が異なるからだ。従って、国の文学を評価するならば、その国の出版の実績なども考慮しなければならない。
 ところで、大国になった中国はどうなのだろう。日本語に翻訳されたものを見かけないから、優れた文学はないのだろう。言論の自由がなく、統制された、いわゆる文部省検定ものばかりでは文学にならない。また文学の幼児からの教育にも影響される。創作は、事実認識に基づく歴史とは異なる。この本質を混同する教育ではどうにもならない。
 文学は、人の心の文化だから、政治的縛りのある国家には存在しないのかも知れない。国防の観点から、文学は一見何の役にも立たない素養のように見えても、人間としての土台の一部なのだ。人は心に豊かさがなければ、この世に生まれた価値すらあやしい。中国、韓国はその意味では貧しい。インド、イラン、サウジ、エジプトなどはどうなのだろう。宗教思想の影響が強すぎるのではないか。大学の文学部では、どのような教育をするのか。政府に干渉されて文学は育つのか。その文学の指導者たちは、大衆にどんな豊かさを与えているのだろう。文学がない国家に未来はない。日本の文学者が、大衆に寄与出来るものは何だろう。大衆の心を高揚させることを、世界に広める責務があるのではないか。
 

生きること

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月 5日(水)10時14分39秒
   早朝の窓辺で、空を見、鳥を見る。生きることは、次の夜明けがあることに違いないが、また、わずかな食を取り、その内に日が暮れることでもある。
 人生で活動している時は、生きることの価値は、どのようにでも表現できた。生きる定義も様々に書き替えられる。だが、よく考えると、そのような社会の価値を全部捨てても、まだ人は生きているのである。今になって思うが、母の最期は何もなかった。子供に対する思いも無かった。生きているから朝がくる。煩わしいが、周りで誰かが何かをやるから、ただそれに任せるだけ。体は苦しくても、長くはなく夢の世界で過ごす。誰かが、赤子の昔に帰ると言ったが、まさにそれに近い生き方だけになる。
 マッチ売りの少女は、寒い街角で凍死する。憐れに思うのは、生きている人の思いだけに過ぎず、少女はマッチを擦る度に、美しい夢の中にいて人生を終わる。どんなに死の準備をしても、どんなに周りを思いやっても、それは殆ど無意味になる。大事なことは、現世の全てに執着が無くなれば、生きていることの意味も、迎えられる死も、何事にもならないのではないだろうか。平たく言えば、己の死後は知らぬことであり、どうでもよいという無私の域に達することではないか。
 たまたま今読んだ本だが、平安時代(900年代)に生きた空也上人は、当時としては長生きで72歳まで生きた。晩年に残した言葉の一部だが、「夜夜(やや)に仏の来迎を待ち、朝朝(ちょうちょう)に最後の近づくを喜ぶ。」とある。一切の煩悩を脱した生なのだ。
 

執着心の強さ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月 3日(月)06時01分7秒
   執着心の問題は厄介だ。殆どの人はそれを意識しないか、むしろそれを自分らしいものと考えている。何故厄介なのかと言えば、執着心は、良い面と悪い面とを併せ持つものだからだ。個性と言ってしまえばそれまでだが、これは人の意思で変えられるものであり、人間としての向上心や成長にも関わる。
 例えば、強い執着心が、難しい問題を解決し、秀でた技を持ち優れた業績を残す。だが、一方では、執着心が強い余り、思考の柔軟性が無くなり、人間としての度量は成長しない。偏屈な人格をなすこともある。だから、執着心は人になくてはならないものだが、それを制御する能力を養う必要もある。
 自分の好きなことをやればよいという言葉は、社会が安定しなかった時代では殆ど少なく、日常は、環境に縛られるのをどう克服するかだった。意に反することでも、自分の信念を脇に置いて、他人に合わせることが強いられる。だが、悪いことばかりではない。自分には無かった世間のあらゆる動きを理解し、許容しながら新たな思考を取り入れる環境があった。その時代から見れば、現代は個人の自由度が高く、むしろ孤独でも干渉されることもなく過ごせる時代となり、独善性や幼児的思考の域を出られない人格者が増えるのではないかと危惧される。己に対する悪い意味での執着が残り、社会性が著しく欠けることにもなる。
 私は、執着心は大変大事な心であると思う。これを失ってはならないが、狭い了見となり、より良い大きな人生の価値を知ることもなく終りたくはない。何事もやってみなければ分からない面白味があり、それを経験することは人生を豊かにする。それには、頑固な執着心を努めて忘れることにしている。
 

要人の人間性 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 7月 1日(土)08時02分49秒
   要人には器量がある、と言われたのはずっと昔のような気がする。テレビでの報道レベルが変わったこともあるが、役人や事業家の人間性には驚かされる。最近では、事業家が有名人を活用して詐欺まがいの行いをし、ことが露見すると開き直りで脅しをかける。それが教育関係となるともっと驚く。役人のトップが用済みになると、今度は己の行動を種に話題を撒こうとする。このような行為は、以前はあまり見かけなかった。然るべき立場にあった人は、己の知識と人間性を尊重されることにより、地位を得てきたのかと思っていたら、とんでもない仕組みの中で、渡り歩きに猛ける人物なのかも知れない。そうでなければ、己の生涯をかけた仕事を、どう認識しているのだろうか。普通の人ならば、仕事に誇りを持っていたと思うが。退役後には、尊敬されず蔑視される人も見かける。
 一般的に、仕事は自分の希望もあるが、むしろ他動的な機会などにより選択する。しかし、仕事に携わるということは、その人の全能力をかけながら延々と続ける実態がある。一言でその良し悪しを言えるものではない。まして、その責任者ともなれば、その仕事を造りあげたのは、他でもない自分なのだ。どんな理由があっても、そこに介在した自分の行為には虚心坦懐でなければならない。特に組織はピラミッド状になると、携わる人々が必ずしもトップの顔を見ることはないかも知れないが、彼らはトップの背中をみて仕事をしている。その影響は、トップの行動の社内外の区別もなく、その人の人間性に関わる。トップは己の不適正を修正出来ないならばトップたりえない。その基本的なところが、全く変わってしまったようだ。品性がないというのは、仕事を戦い程度にしか理解出来ない型の人物だろう。
 最近は、自分を磨くという位置付けが、軽視される傾向にあるのは確かだ。ことが起こると、それは他人や社会が悪いという考えが先行する。自分が関わっている以上、物事の責任は己にあるという考えが道徳として大きかった時代もあった。社会全体が崩壊した時期から、この考えは変化したのかも知れない。他が少しでも悪いかミスを犯すと、己の責任を少しでも回避する知恵が働く。このような人間性の遷り変わりに対する違和感は、ずっと前に米国で感じた道徳に似ている。今、それが米国並みになったのか、日本の良さのようなものが無くなったような残念な思いだ。
 社会人としての人間性は、学校教育が良くなかったと思っていたが、それよりも地域での人間関係の疎遠化や、情報の責任が存在しないネットなど、環境による変化が大きいと再認識される。中年になっても、まだ漫画の世界にあり、現実の行為がどこか幼児の域を出ていない稚拙さを感じている。社会に順応出来ないと、人は脱落することにもなる。
 

分かり易い憲法

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 6月29日(木)06時40分12秒
   日本の大学に、憲法学なるものがあり、それを学問として学者がいることの違和感はこの欄で述べた。私は、理系を専攻したが、昭和三十年代の国立大学では、教養部の二年間で一般教養として憲法学の講義を受けた。その講義で、憲法解釈を勉強したが、違和感があった。単純なことだが、当時の大学進学の少ない時代に、勉強して憲法を知る人はほんの一部に過ぎない。憲法は国民の多くの人々が知らねばならないものとすれば、何故簡単明瞭でないのだという疑問だった。
 本当は、憲法の創作者の意思を、そのまま受け取れば、憲法の規定は単純明快なのだ。言ってみれば、それでは実態にそぐわないから、文体の欠陥をつきながら、解釈を変えるのが憲法学なのだ。こんな馬鹿なことがあるか、というのが率直な意見だ。百歩譲って憲法学があるなら、学者として、憲法の内容より、憲法の憲法としてあるべき文章の体裁を提示し、日本国憲法は早く改訂すべきだと言ってこなかったのだろう。
 文章は口語体で良い。文章やその構成に疑義があるなら、注釈や法律を提示すればよい。今の高校生は選挙権もあるのだから、読んで誰でもそのまま素直に解釈出来ることが前提だ。憲法の専門家でなければ、深い意味が分からないような憲法であってはならない。政治家が学者と共に議論して、論陣を張るなど異常とは思わないか。また、改訂し難い憲法ならば、基本的なことだけにすることだ。細かく禁止条項のようなものを書くなら、時代の変化に応じて容易に変更出来るシステムを採るべきだ。欠陥があっても変更、改訂が出来ない不合理だけを見ても、時代に合わない厄介物ではないか。とにかく、今の憲法はその理念がしっかりしていないから、改訂と言って屋上屋を重ねることは止めて欲しい。次世代を信じ、また日本国のために、不利益な縛りを残さないことだ。我々の世代の、言行不一致な悪習は終わりにすべきではないか。
 

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