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涙のお話

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月22日(金)06時03分35秒
   涙は、眼球が乾燥しないよう保護する目的で自動的に流出する。涙が出なくなれば、大変なことになる。他方、刺激や感情によっても流出が促進される。意思に反して涙が出ると厄介なこともある。
 子供の頃、学校の講堂で映画が上映されたことがある。確か「原爆の子」という映画だったように思う。この時の思い出だが、クラスで最も強いガキ大将が、見せたこともないような涙をぼろぼろ流した。それを見ていた日頃からいじめを受けていた子が、不思議そうに、また勝ち誇ったような何とも言えない目で見据えていた。私は、悲劇の映像を見て出かかった涙は止まり、この新たなる身の回りの光景を凝視していた。己の意思ではどうにもならない、人の本性を見ていたのだ。因みに、この二人は既に故人となっている。
 話によれば、老人になれば、身体の表面が皺になるが、目も同様に皺になる。涙はその皺に沿って流れ易くなるから、眼球が乾き、更に涙を誘発するそうだ。私も、八十歳に手が届きそうな老人だが、老人になると涙もろくなるという。あれは感情の問題ではなく生理現象ではないかと思う。例えば、私は一日にパソコンを使用する時間は長い。時には、知らず知らずの内に、長時間画面を見つめることが起こる。その時に、涙が急に出ることもある。若い時にはない現象だ。母の晩年も、涙拭きを手離せないようだった。瞬きは本能的に眼球の渇きを止めるが、その涙が水路を流れてしまうのではどうにもならない。老人は、出来る限り瞬きを行うことは必要のようだ。
 目の美しい人は、涙が健康的に常に万遍なく眼球を潤している人だ。だが人は、その涙の大半の重要な役割を認識することもなく、涙は感情の証とばかり思い、特に古い男は涙を見せないのがマナーだ。涙を見せれば、その人の心は読まれ、相手が有利になるからだ。仕事上での駆け引きでも、涙は禁物であり、心を読ませない訓練を積む。最近は恥ずかしげもなく、若い男が涙を流すのを見かけるが、自己制御がない習慣が蔓延する世間になったのだろう。意思の強固さがなくなったように見えて仕方がない。防衛庁のトップが、理由は何であれ涙を流すのは良くない。仕事の重大な役割を担うなら、涙を流すのは親子の死に目の時ぐらいだ。
 涙は美しい。涙に色があるというのは、歌の文句にあるように文学なのだ。涙の水滴は薄明りの環境を写し出し光る。涙が人生を変える。やはり涙は女性でなければならない。
 
 

化石人間

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月20日(水)22時18分52秒
   一時代前になるが、化石人間という言葉を聞くことは多かった。今は、差別用語なのか、或いは認識の時代感覚が変化したのか、聞けない言葉になった。化石人間とは、主に古い思考を変えられない人を意味した。
 人の思考は、人間の本性に関わる道徳のような、動かし難い理念と、社会や政治のような、あるべき姿を追求する考えのようなものがある。化石人間という言葉の及ぶところは後者の部分だ。人は何かに影響を受け、己の考えを正しいものとして形成する。形成する時点では、その当時の環境の中で、個々人の考えは、少なくとも生きている。歴史的に古い哲学者の論理も、後に古くなっても当時は生きていた。
 何時の時代にも、普遍的に生き続ける考えは殆ど少ない。社会や環境の変化は、想像出来ない科学の進歩により左右され変化する。従って、どんな理念や思考も、常にどうあるべきかの斟酌が必要なのだ。だが、大方の人の考えはなかなか変えられない。時代遅れだと感じていても、自分はそれでも良いのだという自己満足や、己に対する強制説得を行う。特に現代は、周囲に多少の迷惑はあっても、お互いに干渉を避ける隔離主義的な人間関係が増えてきた。大衆間では問題は見えないが、社会の変化として浸透し、その内に大きくなる。
 社会の指導的立場にあれば、過去に最適と考え決めたものは変えられないというのは迷惑だ。化石人間というのは、そのような立場の振る舞いを称するものだ。たとえば、政治家であれば、私は何主義と言って立候補すれば、数十年経っても変えられない。半世紀前の社会を前提としているから、理念に違和感があっても自己否定になるからなのか、変えてはいけないものと考えてしまう。選挙は、その政治家の理念に対する支持と思いたいだろうが、実際は長期間の知名度やマスコミ知名度に左右される。大衆の未熟な部分だ。
 ここで私が言いたいのは、色々理由はあるだろうが、物事を自分で真剣に考え、また他人の意見や、環境の変化に率直に向き合うべきではないかといことだ。少なくとも、人々や社会に影響を及ぼす立場にあるなら、疑念のない行動をとる誠意を持って欲しい。自己満足のような、浅い考えや虚勢では駄目だと思う。特に戦中戦後は、特殊な国際情勢の中での行動だったから、そこに存在した行動理念は、極めて特殊と言わざるを得ない。その中でも他人への不信感は大きく、被害感も大きいから、誤った信条となり固化する。これが化石人間であり、度し難い存在になる。防衛問題だけをとりあげても、一方はミサイル戦争を議論しても、他方では鉄砲での戦争の土俵にいるので噛み合わない。日本の政治家の中には、化石人間がいる。世界にもその類のトップ政治家がいる。特に独裁者は、己に対する批判を封じるから、未来永劫変わることはない。行き着くところは、革命か戦争しかないのである。
 圧力が無効なら、話合いも無効であり、一時的解決はあっても、いずれ残るは実力行使になってしまうのだ。日本の周辺は注意を要する。専制君主は、間違いなく化石化の道を辿り、大きな不幸を惹き起こす。
 

業務遂行能力

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月17日(日)06時52分58秒
   あの人は仕事が出来る、出来ない、という人の見方は、事業に携わっていた我々の時代では、ごく普通の見方として存在した。今も変わらないだろうとは思う。ところが、官庁の仕事になると、外部から見れば、どうにも違和感ばかりだった。
 どこに違いがあるのかと言えば、主因は、個人の仕事感覚に中に、既に仕事の期限や納期の発想の前提がない。期限のない仕事は、やらないのと同じだという言葉が、普通に用いられていない。政治家も官庁も同じだが、期限のない仕事が多い。仕事の問題が大きい程、納期がなければその仕事の成就はない。自分に期限の負荷をかけて、死ぬほど努力をする考えが、元々個人に存在しないからだ。仕事が出来ない無責任体制の事例は、期限が無い仕事、委員会のような合議制などで個人に責任が不明確な仕事が典型的事例だ。
 「日程ありきではない」と言わざるを得ない首相も大変だ。期限や日程のない事業は反故に等しいという概念で理解する人もいる。日程があれば、仕事上担当する方々は苦労するが、曲がりなりにもその成就策を必死にやる。これは大事なことなのだ。期限が至上命題になっているかいないかは、たとえ、その成果が予定通りでなくても、その進捗には雲泥の差がある。仕事の多様性とその進歩はここから始まる。
 最近はもう企業による社員育成は減ったのかも知れない。社員も定期社員も格差排除といって同じ所得にする指導を政府が行う。評価はそんな単純なものではない。経済の高度成長期時代の国内産業は、必死に社員を教育した。例えばその中に、上杉鷹山の教えだが、「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉は誰でも知っている。今でも、若者は言葉ぐらいは知っている。だが、スマホの物知りでは、その精神の理解は難しい。実践ともなれば、その厳しさには耐えられるかどうかも分からない。
 そんな環境の中で、国内企業は成長し海外進出を果した。日本の国力は、そのような事で維持できた。しかし、今は国家の政治の幼稚さや、国民の甘えの精神から、国内は保護の蔓延で動きがとれず、国内に残っているものは、公官庁に関与するような企業や、国に保護された農業のようなものばかりだ。これは国家の保護政策だけではなく、大きくみれば、安保条約以来の見えない米国の保護もまた大きい。
 憲法改正についても、自民党は、米国の保護頼みで、改正すべき仕事の期限もなく、やっている振りをしていただけだ。憲法改正は自民党の党是などと、とても恥ずかしくて言えたものではない。政策そのものの理念がない。あるのかも知れないが、お経のようなもので唱えるだけになっている。まして出来ない責任の感覚もない。
 業務遂行能力は、特に国政を行う政治家に必要だ。地方行政を管理する能力も必要だ。自由民主主義の拡大解釈が蔓延すると、社会悪が横行する。だから、指導者は高い見識が備わっていることが前提で、特に国家は長期的理念が重要だ。これを行う業務遂行能力を備えた者は希だから大事にしなければならない。

 

北朝鮮はどうなるか

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月15日(金)10時29分2秒
編集済
   北朝鮮はどうなるか。一言で言えば滅びる。このような国家が栄えることはない。これが歴史だ。ただ、どのような滅び方をするかとなれば、それは周囲の状況で大きく変わる。
 国家は、規模が大きい場合は、滅んでも部分的再生の痕跡は続く。北朝鮮は小さい国家であり、いくら高度な兵器を持っても、政府自体が存続することは全くない。破壊的な暴力集団の域に近い組織ほど滅びるのは早い。北朝鮮の前二代の政権は、曲がりなりにも諸方面に国家としての体面を持っていた。だが、現政権はそれがない。だから自滅の過程にある。
 北朝鮮の滅び方は、推測すれば、周囲の被害は大小様々な状況がある。一つは、イラクのような状況になる。周囲の被害は大きいが、覚悟の上での強硬手段で、北朝鮮の国土は殆ど焼土となる。後に使えない国土が多く残る。北朝鮮が核爆弾を如何に多く持とうとしても、小国が周囲を制覇することは不可能だ。結果的に、自国家の命運は、大量破壊兵器を使用する、その時が滅びる時だ。周囲の大国を相手に、虎の尾を踏むのは、たちどころに報復を受ける。例え同盟国といえども、自国にとって損害や不利となれば、しっぽ切りは、ごく普通に行われる行動だ。擁護されることは殆どない。
 南北の朝鮮戦争では、北の軍事力は強く、韓国は殆ど滅んでいた。米国中心の兵力が韓国を救った。この史実があるから、北朝鮮の思惑は、米軍を撤退させることに固執する。そうすれば、朝鮮は北によって統合される。この北の信念は揺るがないから、仮に中国の影響下で北により朝鮮が統一されても、北の独裁形態の政権は好ましくないので、いずれ抹殺される命運にある。即ち、キムファミリーの支配は無くなる。三世代目が終焉となる。核兵器が、韓国を併合する武器になることはない。
 対話の手段で国家の持続を画策しても、核のような大量破壊兵器がある限り、対話環境は巡ってこない。それは対話の範疇にもならないからだ。北朝鮮がイランの場合とは異なるのは、国家の基本体制の問題だ。
 ロシアのプーチン大統領が、経済制裁は効果が無いと言っているが、だからと言って対話に効果があることにはならない。対話で解決していく概念そのものが成り立つ国家であるかどうかがその前提にある。北朝鮮には、そもそも国家として基準を守るべき要件が備わっていない。北朝鮮の国家理念は、現状維持ではなく、半島を統一し征服を目指す国家だから、国家自体のあり方が、基本的に対話にならない。経済制裁に効果がなければ、行き着くところは武力行使だけになるから北朝鮮は滅びる。イラクのケースに似ている。
 日本は、この国家の軍事に関して第三者ではない。北朝鮮の行う軍事行動は、不確定な米国に向かうより、より確実で、米国にとっては被害がより穏やかな日本を狙う。日本は米軍の前線基地だから、攻撃する正当性も成り立つ。米軍のグアム基地をターゲットと表示したことは、その前に日本の米軍基地は既に攻撃の手段が万全であることを意味する。この第一目標は完了している。日本は、攻撃力はあっても使う能力がない。迎撃は攻撃より困難だから、日本国土の被害は起こる。日本は憲法改正による国軍の能力を上げ、米国支配から脱却し独立しない限り、国家間の交渉やかけひきすら出来ない。攻撃能力というのは、大量破壊兵器を持った以上、戦争の局地戦の概念は消滅している。防御は攻撃の概念と同じになり、瞬時に全軍事施設を破壊することが防御になる。その中に機能を止める原発施設もターゲットになる。この能力が日本にはない。
 真の米国との安保条約は、日本にある米軍基地が無くなった時期で初めて成り立つ。それまでは、安保条約の役割は、米国の思惑の中の行動で物事が処理され、特に日本にある軍事基地が前線基地として、自由に使用出来るための条約と見做すべきだ。本来は、自由民主主義圏を守るべき条約であるべきだが、中国の台頭により、その理念より、限りなく軍事手段強化の誇示へ傾倒してゆく。日本国民の期待は、米軍が日本を無傷で守って欲しいのだが、それは殆ど考えられない。日本に犠牲が起これば、米国の軍事の正当性はより一層増し、日本国内に基地を持ち続けるという皮肉なことになる。
 

健保制度の愚かさ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月11日(月)05時36分12秒
   社会の愚かな政策の一つに、健康保険の問題がある。どんなに貧しくても、皆が等しく健康を維持するために、社会保障により、十分な医療を受けることが出来る。誠に結構な政策であり、人道的な大事な理念であることに異論はない。ところが、世の中は、そんなに善良ではない。道徳感の水準の問題でもあるが、人は、理屈は分かっていても本質的に他人はどうでもよく、己が得をすればそれで満足だという、はなはだ迷惑な観念を持っている。加えて、社会保障施策の大原則ともいうべき、国家の人口の推移問題がある。
 私は、二三年に一度ほどだが、病院で検査をしてもらうことがある。その時、病院の支払いカウンターの話が耳に入る。老人ばかりで、医療費の清算が殆ど千円以下なのだ。いや、五百円以下が多い。それは、費用が実際の十分の一だからそうなる。私は、三割支払いだから、二三千円は取られる。私は、医者に殆どかからず、病気やケガなどすると、市販薬で対処するから、数千円出費することはよくある。だが殆どの方は、そんなことはやらない。相当収入があり資産家でも、病院で薬をもらえば安く、あり余るほどに多量に薬を仕入れる。病院も売り上げを上げるため、薬剤の支給を薦める。そして、私のような医者嫌いは、損をしていると言って馬鹿にされる。廉価販売システムを使わないからだ。
 また、健保の問題と言えば、高度医療は金持ちばかりが有利で、格差が大きいなどの議論になる。高度医療は、コスト削減がない限り、大衆の健保に合わない。個人と公の区別は自から限界がある。
 良く考えて欲しいのは、健保を利用している限り、大衆が積極的に節約の精神を持たない限り、健保制度が成り立つ筈もない。医者だってこの制度で事業拡大を遂げているにもかかわらず、本音を聞けば、こんな馬鹿な制度が長続きする訳はないと言っている。政治家も利権があるから手を付けることはない。
 問題は、我々の時代ではまだ被害は少ない。だが、このつけは明らかに次世代の負荷になる。今の世代の、隠れた巧妙な利己主義が原因なのだ。医業に是正する規制を求めても、正直者が馬鹿をみるようなことにもなる。病院経営者は医者ではなく、専門の事業家がいる。政治団体までに力が及び、その影響力は強大だ。なかなか困難な問題だ。放置すれば、社会保障は、崩壊の危機に直面する。
 多少でも、是正されるかと思う方法は、実際に薬を処方される個々の患者が、余分の薬をもらい過ぎると、それは痛い己の出費となる実感があるような薬の価格設定が要るのではないか。それが、薬価の二割負担なのか、三割負担なのかは分からないが、患者自身の道徳感が向上しない限り、結局、保険額は増えていくことを知るべきだ。市販薬を買うコストと、病院の診断料と支給薬のコストがある程度バランスする域にこない限り、病院経由の薬剤販売システムにブレーキがかからない。市販薬で済まそうという節約意識が失せてしまっている。とにかく今の基準が甘くて、制度の足を引っ張っているのは確かだ。本当に貧しい人の医療を苦しめるのは、世界でも高い水準の社会保障であるにもかかわらず、その認識が薄い日本の一般患者達である。社会主義体制の崩壊の最大の理由は、大衆の利己主義の蔓延だということだ。
 

国家経済のあり方

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月 6日(水)06時50分15秒
   私はもう老人だが、日本の経済の復興期に企業に勤め、現場の生産管理を指揮する仕事をしてきた。その経験から、この欄には幾つかの指摘をしてみたところだ。現状については、つぶさに見ているのではないが、日本企業が世界に進出し、結果的に国内産業の力が無くなってきたのではないかと危惧している。世界から見れば、日本の需要は量的に少なく、将来も拡大しないように見える。確かに、途上国の需要は旺盛で、しかも、日本の既存の産業力でも、企業の拡大はやり易い。だが結果的に、国内で生み出す富の活性も、需要の創造も衰退してゆくように見える。
 日本の高度成長期の産業は、先進国より劣る消費を回復し、更に新しい製品の消費意欲をかき立てた。我々産業に属する技術者は、市場の潜在的需要を真剣に掘り起こし、それをどう生産するか、本当によく勉強し新商品を造り出した。またそれによって、国家が豊かになるのを実感した。消費者の需要は、必ずしも顕在化しているものではない。生産側が生み出す需要もあるのだ。そして、それが国家の富となるのだ。
 ところが、国際経済の流動化によって、この様相は変わってきた。大きな資本が、諸国家の自由民主主義であるなしに拘わらず、国際市場を支配するようになった。大きな資本は富を生む筈だが、それが金融のゼロサムゲームの様相を呈し、多くの経済活動を臆病にし妨げている。
 次元は少し異なるが、私の現役時代は、企業の株価は業績相場だった。経済の動きと企業の業績や力量を的確に分析すれば、個人投資も経済に寄与することが出来た。またそれにより、経済や企業の経営能力などの実学も高めることが出来た。しかし今の株価の動きは、海外資本を含めた巨大な投資が、コンピューターにより、秒速で世情を捉えて動く。その結果、個人投資家は撤退を続けざるを得ない。個人投資家は、数年単位の大きな経済の動きだけで、投資の判断をせざるを得なくなり、市場の普遍的活性は失われつつある。また、株式の配当水準は、金融の利子の百倍、千倍となり、金融資産の運用の相互バランスも変わった。金融業も個人の預金を嫌い、個人預金者は、預金はただの安全管理の意味しかなく、タンス預金の増加は犯罪を誘発することとなった。個人を含め日本の金融資産は、その運用能力の貧弱さもあり、多くは死に金となり経済に寄与しない。活用する技量の前に、その意欲すら沈滞している。経済の活性を失ってしまったのだ。日本の財務体質もこのことに関連している。
 産業の空洞化した国家は、世界恐慌の中で大きな影響を受ける。一種のバブル崩壊だ。日本は資源がなく、農業が遅れている。輸入産業構造の最悪の政策だ。素直に日本の経済の足腰を強靭にするには、この最も富を生み出す国家の基本を大事に育てることだ。大事にすることが保護することになり、物事の初歩的対応が間違っている。国家のインフラ投資を重視して、国内の生産者の競争意欲を高めることだ。その中に、新たな需要の開発意欲をも高まる。奪い取る富より生み出す富が人を幸せにする。日本の産業の空洞化が、人件費高や事業税、不動産価格のような問題にされるが、本質は人も資産もコストに値する機能をせず、運用が出来ていないからだ。社会を保護するという規制の乱用に侵されている。
 国家経済のあり方は、国際化に逆行する施策は好ましくないが、自由経済であってこその話だ。今のように、専制的国家主義に乱される経済は、自由経済論理の本質を害する。TPPは、真に自由民主主義経済を守る経済圏の創造を期待したのだが、米国の脱落により、その威力は半減してしまった。EUの自由経済圏も英国の脱落により衰退の危機にある。独裁主義の国家の経済は自由主義経済圏の富を奪い、国家が支配する産業を推進し、国際経済を支配しようとしている。規律を失った国際経済は、自国主義の台頭を助長する時代へと突入していく。
 

自然保護に違和感

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月 5日(火)06時44分31秒
   人間により地球の自然環境は破壊されてきたという。過度の所業により、破壊が行われたことも確かだ。しかし、自然破壊を言うならば、出来る限り人類の繁殖を減らすことになる。自然破壊の歴史そのものが、人類の歴史だからだ。人類はまだまだ淘汰されない限り増殖するし、死亡率減少の施策も高度化してゆく。必然的に自然破壊は加速する。
 人間の所業はこれからも世界的に高度化し、消費型の自然破壊は増す上に、大量破壊の技術も増える。少しでもその破壊を遅らせるために、制限をしてゆく考えを否定はしないが、そのようなことで制御出来る次元は過ぎ去ってしまっている。人間の増殖に限らず、動物の繁殖も保護により増殖する。これも自然の破壊につながる。植物の繁茂域も限りなく減少する。事態は分かっていても、世界の人類を制御することは不可能だ。
 自然保護の主張や保護団体の言は、そのような自然の本質を外れて、利権的要素や、政治的かけ引きなどを含む場合がある。確かにその主張や行動は、一見正しく見えても、その個々の結果が更に多くの破壊をもたらす思考は熟考さていないものが多い。
 中学生の頃、自然淘汰という言葉を習う。この言葉の概念は、自然の地球環境の膨大さの中で、生き物の小さな部分的攻防による盛衰だった。それが今は、小さな地球環境を制覇するような、人類の高度な科学が大量の淘汰を行うのだ。私は、自然科学を学んだ。その中には地球科学という講座もあった。当時は、大きな地球に挑戦する基盤があった。ところが半世紀後には、その地球自体が危うくなっている。今の技術者は、この問題をどう解決するのだろうか。
 自然保護というのは、目先の個より、もっと基本的な地球や宇宙を見据えた概念で、人類の驕りを正すもののように感じているのは、私だけなのだろうか。
 

自然の恵み

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 9月 3日(日)06時47分8秒
   自然に触れる。自然の恵みに感謝する。どこでも語られる言葉だが、その実感ともなれば、人としての経験の違いから、見方には雲泥の差がある。社会が豊かになるということは、人は自然から遠のくことに他ならない。本当かどうかは知らないが、テレビの報道で、砂漠の中を若い女性が一日がかりで水を汲みにゆく画像が出る。やらせのようでも、それに近似する困難は想像出来る。自然とは、本来そのようなものだ。
 私が育った時代は貧困で、まさに自然の中で、自然と向き合いながら自然の恩恵を受けた。周りは田園風景でも、今とは違い、人はその自然の変動と脅威の中で生きた。自然は厳しいが故に、穏やかな自然もある。朝は蛙の合唱が毎日で、鳥の騒ぎで起床する。にわとりの鳴き声が、あらゆる方向からきこえてくる。静かな朝とは言えないが、そのような自然の音であればこそ、人が居ない静かだという意識なのだ。今は、街に住んでいるが、近くに田んぼが無いことはなくても、先ず蛙の声はない。だから、農村風景とはかけ離れている。
 自然のなかで育っていない現世代の人々の自然のイメージは、自然は、憧れに似た美しいもので大切にすべきだと思うものだ。自然の中で育った私は、自然自体が厳しい威厳のような、人間の意思を拒否するような大きなものに見える。だから、人と自然は相互に妥協すべきものに感じる。自然を克服してこそ、人は生きられる。自然は美しいが厳しい。
 世界に環境保護団体という組織がある。それに類する愛護団体もある。その活動はどう見ても、その理念が無いのか不純に見える。理念の正当性すらあやしい。その行動の結果の正当性が証明されていないからだ。人に対する自然の恵みは、自然を破壊するものでもある。両者が共存出来る時代は過ぎ、今は限りなく自然の破壊へと進んでいる。自然にとって、世界の人類の良識そのものが間違いなのだ。
 

社会の規制をよく見よ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 8月31日(木)13時37分56秒
   個別のものをしっかり見て、その良さに感動する。他方、全体のバランスからも、良い物、そうではない物が適当に存在する全体の良さもある。例えば、すみれの花は、小さくて可愛いい。よく見るとそのきれいな中に気品のような強靭さもある。大事にしている内に、旺盛な繁殖力により、たちまち他を圧倒し、雑草のごとく庭を占領し、中には花も咲かないのもある。個別の良さを知っている人は、大勢力になったすみれでも、除去するには抵抗感があり、排除が出来ない。他方、本来植えた位置にないものは、他を荒らすものとして、全体にバランスを乱すものとして引き抜いてしまう。どちらにも、それなりの見方はあるのだ。
 一般的に、女性は個別を大事にし、男性は全体を大事にする。これは、少し前の世代のことで、それは、男性が社会に出て働き、女性は家庭を守るという習慣の生活様式に関係がある。今の社会では、このような習慣は変化したので、このような体系的なものはなく、各人の個性が中心になるから、家族のあり方も千差万別に広がっている。
 更にこれを社会に拡大すれば、男性は今でも社会を大きく変える発想には消極的だが、このような保守的な体制に拘わらず、先々はともかく物事に傾倒したらそれに拘泥するのが女性ではないかと思う。ただ、最近は、個人の社会的権利を強調するあまり、かえって住みにくい社会になりつつある。報道でも、個人の権利を害する記事は多く、それより多くの大衆が僅かな不快を被る程度のものは放置される。実は、長い目で見れば、これが大きな社会の変遷なのだ。昨今では、社会協調の立場から、己の意見を述べる人は少なくなり、他人の素行に無関心、というより一切批判せずという世間になった。自分のことは自分で守る以外にはなく、社会全体が疎遠になった。当然のことながら、個人の非社会的行動は、常軌を逸したものが続出することにもなっている。
 社会というものは、個人的欲望を放任したら成り立たない。むしろ、社会全体の立場から、己の行為が社会に役立つという考えを、人々が等しく持つことが重要だ。国家における社会の価値観は、ここに大きな相違が生じる。個人の権利や欲望は、著しく制限される国家もあるが、日本社会はあまりにも規制を嫌うあまり、社会全体の利益を軽視した自制心のない社会へと進んでいる。
 

雷の思い出

 投稿者:片山正昭  投稿日:2017年 8月25日(金)06時31分25秒
   雷は自然現象だから、今も昔も変わりはないのだろう。しかし、その雷に対する人の関わり方は、その時代の文化の違いにより大きく異なる。私が、子供の頃は明治生まれの祖母達と暮らす時代だから、人の生活の知恵は、殆どがこの明治からの知恵がその教えだった。ただ、学校は新しい科学を教え、教師も子供も勉強するから、今と異なるのは、学校の知識は意外にも世の先端をゆく知識でもあった。それだけに、子供の知識は、世間に重要な位置付けをもっていた。
 周りを海に囲まれた島では、ごく普通の現象だが、夏の午後になると、空は一転して雨をもたらす。激しい雷を伴うのだ。午後になると、晴天の一角に見事な入道雲が沸き上がり、やがてそれが全天を覆い尽し、激しい雨となる。子供の頃は、九州育ちだから、このような現象は普通に経験した。人生の後半は、殆ど関東で過ごすことになったから、雷の雨は殆どなく、子供の頃の雷雨は思い出となるのだ。
 中学生の頃、雷が電気であることは学習する。だが、家に帰れば、雷が鳴ると、祖母は蚊帳を吊り、「くわばらくわばら」と呪文を唱える。子供は一緒に蚊帳の中に入り、そのまま昼寝をしてしまう。蚊帳は麻布製でなくてはならず、吊りは四隅の一角を落とさなければならない。雷はその傾斜に沿って落ちてゆくのだそうだ。
 中学生の頃は、私は新聞配達をやって家計を助けた。夏の夕刊配達は、必ずこの雷雨に遭遇する。雷雨現象は、一旦始まるとその同じ現象が毎日続く。夕刊の配達は、雨が上がるまで待つようなことは出来ない。学校で習った電気の現象は解っていても、周りの広い田んぼの道を歩いて行かざるを得ない。運が悪ければ、まともに雷にやられる恐れはある。その時は、本当に覚悟を決めた。雷にやられるということは、自分が世に必要でないことなのだと言い聞かせながら歩いていた。幸いにして、今日言われるような雷の被害対策をやらずに生き残れた。そしてそれは、どこかで自分を必要としている社会を思い、自分自身の人生観の始まりでもあった。科学が好きで、学業でも科学を専攻したが、それでも人の心理は科学ではない別次元で形成される。後に、会社の現場で、命に係わる事故に遭遇した時、泰然と行動出来る何かもそこに起因する。常にベストを尽くす考えも同じだ。
 この雷雨にまつわる思い出には、美しい自然がある。その一つは、夕刻に上がった雨の後には、素晴らしい大きな虹を見ることが出来る。虹の足が田んぼの中から生え揚る光景は普通には見られないだろう。陽が沈み夜になると、空気中の塵を一切流してしまい、電灯の少ない暗夜のなかに満天の星空が出現する。人々は「バンコ」(縁台)の上に集まり、蚊取り線香とうちわで蚊やりをおこない、世間話にうちとける。 蚊帳の生活様式は無くなってしまったが、人間関係がどうあれ、共に集る習慣だった。蚊帳を幾つも持てる家族は多くは無かった。現在のような網戸の発想も無かった。家自体が、床も天井も抜け穴だらけで、風通しがよく、蚊を防ぐことは不可能だった。強力なスミチオンが登場したのはこの頃で、防虫の共同作業が始まり、薬害事故も始まった。それまでは、農村には誘蛾灯が多く、蛍光灯の下に一メートル四方のオイルパンが設置され、昆虫類の駆除を行っていた。
 今では、個人の守秘に関わる問題が重視されるが、昔は生活様式そのものが、人々の共生意識のなかにあり、社会秩序や道徳の基本でもある。人々との関わりが大きい故に、人生の興味も多様化していたのではないだろうか。他人に影響されるということは悪いことではない。影響される機会を失ってしまった現代はどうなってゆくのだろう。

 

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