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Re: 寒中御見舞 謝々!!

 投稿者:zyun  投稿日:2018年 1月31日(水)16時42分16秒
返信・引用 編集済
  > No.1954[元記事へ]

穂積健夫さんへのお返事です。

穂積健夫さん ようこそ!霞会掲示板へ。ご来訪誠にありがとうございます。

先日は丁重なる寒中見舞いを拝受しながら、返信が遅くなり誠に申し訳ありません。重ねてお詫び申し上げます。

ご来訪本当にお久しぶりですね。貴兄には益々ご健勝の様子、先ずは恐悦至極に存じます。米原様もお元気なご様子で、新年早々賀詞を拝受致しました。

> 米原様 穂積は元気です。水谷様とは年の初めに文の交換を致しました。・・・

zyunは、残念ながら、水谷様を存じ上げませんが、恐らく、懐旧大連時代における貴兄の朋友かと存じ上げる次第です。
ついては、貴兄同様、水谷様共にネット交友願えれば幸いに存じます。

それでは、レスポンス遅延のお詫び旁、復のお越しをお待ちしています。謝々!! 再見!!



http://dairenkko.server-shared.com/

 
 

寒中御見舞

 投稿者:穂積健夫  投稿日:2018年 1月21日(日)15時03分20秒
返信・引用
  寒中お見舞い申し上げます。zyun様霞掲示板の皆様御無沙汰致しております。
昨年末よりPCの不良 インターネット接続不良にて修理中 交換部品製造中止にて
新たに 10を購入しました。新年の挨拶遅れ申し訳ございません。
米原様 穂積は元気です水谷様とは年の初めに文の交換を致しました。何かの会合で
会われた事と思います。皆様本年もよろしくお願いいたします。 穂積 健夫



 

Re: 年賀

 投稿者:zyun  投稿日:2018年 1月 8日(月)17時05分7秒
返信・引用 編集済
  > No.1952[元記事へ]

Hidekiさんへのお返事です。

Hidekiさん ようこそ! 霞会掲示板へ

先日は丁重なる賀詞を拝受いたしまして、誠にありがとうございます。
今年もどうぞ「霞会掲示板」を、ご愛顧いただきますようお願い致します。

>昨年暮れから1週間ほど高岡に帰省していました。雪のち雨のち曇りのち晴れの繰り返しでした。今のところは雪がそれほどではないですが寒かったですね・・・

ご家族お揃いで、お正月帰省でしたか。お母様には、さぞかしお喜びのことと拝察いたしております。尚、お母様にはご息災にお過ごしのことと拝察いたし居ります。
ところで、大連も冬季は、かなり寒いところでしたが、積雪は意外に少なかったですね。高岡と緯度経度的には、如何でしょうね?

>実家の裏庭でジ、ュウリョウ (ヤブコウジ、山橘)を探したのですがとうとう見つからず・・以前その写真を撮ったのをイラストレーターでデザインした画像貼りますね。ほんと可憐で、この雪の中強い花の印象を持ちました。
 大伴家持は、越中国司時代、次の和歌を残しています。「この雪の消(け)残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」・・おそらく日中陽が当たり古墳の眠る西山丘陵あたりで詠んだものでしょうかね?その往来は今、「山根往来」と呼ばれています・・・

ジュウリョウとは、正月の縁起物として、千両,万両と共に寄せ植えする、十両のことですよね。我が家の狭庭にも植えてありますが、生育が今一のところへ、結実は野鳥のヒョに食べられてしまいました。

それでは復のお越しを楽しみにしています。謝々!! Hrom zyun




 

年賀

 投稿者:Hideki  投稿日:2018年 1月 7日(日)14時23分20秒
返信・引用
  zyunさん、遅れましたが新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げ
ます。昨年暮れから1週間ほど高岡に帰省していました。雪のち雨のち曇りのち晴れの繰り返し

でした。今のところは雪がそれほどではないですが寒かったですね。実家の裏庭でジュウリョウ
(ヤブコウジ、山橘)を探したのですがとうとう見つからず・・以前その写真を撮ったのをイラス

トレーターでデザインした画像貼りますね。ほんと可憐で、この雪の中強い花の印象を持ちまし
た。大伴家持は、越中国司時代、次の和歌を残しています。「この雪の消(け)残る時にいざ行

かな山橘の実の照るも見む」・・おそらく日中陽が当たり古墳の眠る西山丘陵あたりで詠んだも
のでしょうかね?その往来は今、「山根往来」と呼ばれています。
 

新年ご挨拶

 投稿者:mitu  投稿日:2018年 1月 2日(火)22時57分33秒
返信・引用
   Zyunさん昌子さん皆さん明けましておめでとうございます。昨年はいろいろお世話になりました。
今年も宜しくお願い致します。

 Zyunさん 早速mituの掲示板へ新年の御挨拶にお出で下さり有難うございました。本村先生から
宮日紙元日の「歌の窓」へ小生の拙句を掲載戴き感激しております。これもZyunさん昌子さんご夫妻の日頃からのご支援の賜物と感謝致しております。本当に有難うございます☆彡
 

Re: ★新年好!祝全家各位健康★

 投稿者:zyun  投稿日:2018年 1月 2日(火)21時38分56秒
返信・引用 編集済
  > No.1949[元記事へ]

米原さんへのお返事です。

米原様には、新年早々丁重なるお祝詞を拝受、誠に有難うございます。お元気なご様子が伺え、恭悦至極に存じ上げます。

ところで、米原様には、旧き佳き時代の大連の実状を知っている数少ないお方だけに、何かと貴重なコメントを拝受頂ければ、誠に幸甚に存じます。本年も、何卒倍旧のご支援の程願い上げます。

それでは復のお越しを楽しみにしています。再見!! From zyun



 

★新年好!祝全家各位健康★

 投稿者:米原  投稿日:2018年 1月 2日(火)10時05分11秒
返信・引用
  Zyunさん 大連っ子の皆さんへ

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

穂積さんお元気ですか。水谷さんと毎月会っています。  米原  

http://8322.teacup.com/zyun/bbs

 

★謹賀新年★

 投稿者:zyun  投稿日:2018年 1月 1日(月)09時55分30秒
返信・引用 編集済
  寡っては
「大連っ子」の皆さんへ

新年 明けましておめでとうございます。今年も、当該「霞会掲示板」を、倍旧のご愛顧の程願い上げます  純
     
 

Re:図書「 大連・空白の六百日」の紹介

 投稿者:zyun  投稿日:2017年12月31日(日)17時20分26秒
返信・引用 編集済
  > No.1946[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。

大連の子の子さん&ひこうき雲さん ニーハオ!お元気ですか。

月日の経つのは早いものですね。今日は、平成29年の大晦日ですね。今年一年、大変お世話になりました。

>  色々な方の体験談を今もネットや本で見つけると読んでいますが、終戦時に住んでいた場所で大きく違ってきますね。・・・

> そうですね。内陸から数百kmも逃避行した方が大変だったと思います。大地の 子、赤い月等を見ていたので父も大変だったと思っていたのですが、・・・

ところで、大連の子の子さんは、富永貴子さん書下ろしの、新評論社発行「大連・空白の六百日 戦後そこで何が起こったか」をお読みになられたでしょうか?かの澤地久枝氏は(戦後満洲からの引き揚げ者の一人)書評で、大連について、この本以上に克明な体験記録が書かれたことはかってない。と評されていましたよ。又、大連の戦後史研究は、この本から始まることになるだろうとの書評も他にありました。

若し、お読みでなかったら、どうぞ、ご一読ください。それでは佳いお年をお迎えくださいね。

復のお越しを楽しみにしています。謝々!! 再見!! From zyun







 

Re: NHKのファミリーヒストリー(…みたいな)

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年11月15日(水)01時37分1秒
返信・引用
  > No.1945[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

>  色々な方の体験談を今もネットや本で見つけると読んでいますが、終戦時に住んでいた場所で大きく違ってきますね。

そうですね。内陸から数百kmも逃避行した方が大変だったと思います。
大地の子、赤い月等を見ていたので父も大変だったと思っていたのですが、
当時の我家から大連港までは2km位でしょうか?
実際に行ってみて位置関係が分かりました。
大連に住んでいた方はドラマの牡丹江、奉天等と比べたら
地理的にはかなり良い環境だったと思います。

天皇の退位に伴い平成の次の年号も気になる所ですが、
私は康徳にも興味があります。

康徳(こうとく)は、満洲国の元号。帝政に移行した1934年3月1日から、
満洲国が崩壊した1945年8月18日まで使用された。

過去に話題も無かったようなので記しておきます。

 

NHKのファミリーヒストリー(…みたいな)

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年11月14日(火)21時00分53秒
返信・引用 編集済
   zyunさま、大連の子の子さん、こんばんは。

 URLありがとうございます。

 色々な方の体験談を今もネットや本で見つけると読んでいますが、終戦時に住んでいた場所で大きく違ってきますね。今まで知らなかったこともたくさんありました。
 大連の子の子さんのURLは、私も(よくネットで検索をしているので)読んだことがあり、「ボクの満洲 漫画家たちの敗戦体験」という本も読みました。
 母と引き揚げの話しをした時に「日本を初めて見た時、きれいだった?箱庭みたいに見えた?」と聞いたところ、(以前投稿した記事に繋がるのですが)「そんなこと思わなかったわね、それに日本には2度来たことがあった」だったのです。赤塚不二夫さんの感性豊かな言葉を話題にしなかったら、私はずっと(母は終戦で初めて日本に来たと)勘違いしたままだったのかもしれません。

 戦後の話しですが、
 ソ連兵・中国の方からの暴行・略奪などをされたことはなかったそうです。鞍山は昭和製鋼所の撤去作業(ソ連が国内へ持ち帰るため)があったため、祖父の仕事も(社員ではありませんが)とても忙しかったそうです。食べる物に困ったというような話しは聞きませんでした。大きな通りに出ると腕時計をたくさん身に着けたソ連兵がいた、自宅前に住んでいた女性は髪を短く刈っていた、ソ連の軍票、八路軍と国民党軍の銃声、これらは覚えているそうです。
 引き揚げに関しての知識を得た私は(母は知らないと思い)「日本政府の方針は残留だったので、日本に帰ってこられなかった可能性もあった」というような話しをしたら、「そのころは密航船というものがあってね、…」と。死んだら困るのでやめたそうですが、家族会議をしたことをかすかに覚えているそうです。

 母から聞いた後、ネットや本を読んだのですが、同じ鞍山でも辛い体験をした方はいました。また戦後の鞍山のことが書かれた資料を読むと、治安は良かったという印象は受けないので(大連よりは良かったのでは?と私は思います)、母は恵まれていたのだと思います(撫順に住んでいた方の話しは母の話しと似たものがありました)。

 母の話しに興味を持ち詳しく調べていくと、満洲・大連の色々なことがわかってくるのですが、終わりがないですね。
 大連での生活~引き揚げ(帰国後の生活)までを聞いたら、自分のファミリーヒストリーを知ることができたような感じがしました。さばを食べて蕁麻疹が出たことも、母にとっては良いことだったのだと思えてきます。

 戦後の話しはこれくらいなので、また、大連の話しを聞けたら聞いてきます。
 

大連からの引き揚げ記録

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年11月10日(金)00時15分5秒
返信・引用
  zyunさん、ひこうき雲さんへのお返事です。

こんばんは。

葫蘆島からの引き揚げに関する記事を見つけました。
申請書類とかもあり、当時の様子が感じられます。

大切な記録です。
これでいいのだ! ↓

http://www.tanken.com/hikiage.html

 

Re: 大連からの引き揚げ記録

 投稿者:zyun  投稿日:2017年11月 3日(金)16時26分24秒
返信・引用 編集済
  > No.1942[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!こんにちわ

>  引き揚げの話し…
鞍山から葫蘆島まではぎゅうぎゅう詰めの無蓋車。その間(2~3日?)は雨が降らなく、助かったそうです。多くの方が体験談で書いていますが、やはり、列車は何度も止まったそうです。その度に祖父はお金を出し、まわりの人からも集め機関士?に届け・・・・

往時、引き揚げに際して、大変なご苦労をされていることが伺えます。大連でも、昭和21年の後半頃になると、葫蘆島からの引き揚げが始まったことが、風の便りに聞かれるようになりましたが、大連の引き揚げは何時になるのか、確かな情報がありませんで、不安と苛立ちで一杯でした。
 往時、zyunの状況を記した稚拙な駄文(戦後50年読者の証言 私たちが幼かった頃)を,下記のとおり添付掲出しております↓。お暇の折にご笑覧頂ければ幸いです。

それでは復のお越しを楽しみにしています。謝々!!From zyun






http://dairenkko.server-shared.com/profil.html

 

コロトウまでは無蓋車

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月29日(日)22時28分22秒
返信・引用
   zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の中のみなさま、こんばんは。

 引き揚げの話し…

 鞍山から葫蘆島まではぎゅうぎゅう詰めの無蓋車。その間(2~3日?)は雨が降らなく、助かったそうです。多くの方が体験談で書いていますが、やはり、列車は何度も止まったそうです。その度に祖父はお金を出し、まわりの人からも集め機関士?に届けたので、祖父と一緒にいた時間は少なかったそうです。
 母が見たのは一面のスイカ畑。そして遠く向こうに小さく見える民家。そんな景色を見ていたので、実家に帰る列車の中で、線路脇に建つ家を見て、「こんな近くに家がある」と日本の風景に驚いたことを覚えているそうです。
 私は葫蘆島まで、一部分でも線路に沿って歩いたのかと思っていたのですが、そんなことはなかったそうです。

 葫蘆島では自炊
 乗船までの間(1か月弱?)は自炊生活だったそうです。そのための鍋は用意してきていたそうです。母達の引き揚げは夏場でしたが、冬の人達は寒さが加わるので大変だったと思うと話してました。

 日本へ
 佐世保へ入港。船の名前・入港日・船内での様子も「狭かった」以外は(あまり)覚えていないそうです。しかし、白い粉(DDT)の散布は母も記憶に残っているそうです。



 

引き揚げ

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月24日(火)23時24分24秒
返信・引用
  > No.1940[元記事へ]

zyunさんへのお返事です。

こんばんは。

>zyunも、貴兄父上様と全く同様な体験をしましたね。引き揚げ船名はお聞きにならなかったでしょうか?

残念ながら船名は聞いていないので不明です。
S22/11の引き揚げだったと聞いたような気もしますが、記憶が確かじゃありません。

だだこんな事も聞いています。
なかなか帰国の順番が来ない中、父の姉が満鉄に勤めていたので、
他の一般市民よりは少し早く帰国出来たと聞いた事があります。

 

Re: 大連からの引き揚げ

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月24日(火)21時25分7秒
返信・引用 編集済
  > No.1939[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。

大連の子の子さん こんばんわ!いつもながら「霞会掲示板」へのサポートに感謝・感謝です。

>父はS22に大連港から貨物船で佐世保港に到着して初めて日本に来たと言っていました。 船内で亡くなる日本人も多く、途中警笛音と共に海に投機されたと聞きました。 佐世保港では白いDDTという物を噴霧されたそうです・・・

zyunも、貴兄父上様と全く同様な体験をしましたね。引き揚げ船名はお聞きにならなかったでしょうか?
zyunが乗船した引き揚げ船は、急遽改造した貨物船のようで,船底で寝起きしたことが想い起されます。周囲に船酔いする人もみられ、初めての母国日本を目指すzyun少年としては、不快極まる想いの中、一方で帰国できる喜びを感じたことも否めません。

それでは復のお越しを楽しみにしています。再見!!From zyun





 

小学校の暖房設備について

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月22日(日)23時37分11秒
返信・引用
  ひこうき雲さんへのお返事です。

>お父さんの話しは(無理やりかもしれませんが)【戦後は机や椅子を石炭の代わりにボイラー室で燃やした】となりませんか

そうかも知れませんが、もう確認する事が出来ません。

父はS22に大連港から貨物船で佐世保港に到着して初めて日本に来たと言っていました。
船内で亡くなる日本人も多く、途中警笛音と共に海に投機されたと聞きました。
佐世保港では白いDDTという物を噴霧されたそうです。
その後汽車で本州へ向かったそうです。
車窓からの景色でたびたび石の塊が積んであるのを見て母親に尋ねたそうです。
そこで日本のお墓を知ったそうです。
 

Re: 小学校の暖房設備について

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月22日(日)21時08分6秒
返信・引用
  大連の子の子さんへのお返事です。

> 私が父から聞いたのは終戦後の冬は小学校の教室で暖を取る為に
> 学習机、椅子を燃やして暖を取ったと言う事です。
> どのように燃やしたかは分かりません。
> 霞小と違い撒きストーブかも知れません?

 疑問は出てきますよね、私も疑問だらけです。
 私は母の話しの前後をすべて知ったうえで、聞いているわけではないので、勝手にイメージ、勝手に勘違いしたまま聞いていることが多いです(何度も書きますが)。一番大きな勘違いは母が引き揚げで初めて日本の土を踏んだのかと思っていたら、それまでに2度来たことがあったと聞いた時です。引き揚げの話しを聞いていた時だったので、私は「あれっ、そうなの?」、今までイメージしてきたものと……違う、でした。
 電話もあったのか聞いてみたのですが、「両親が仕事で使うからあったわね」と。私は「手紙や電報の時代かと思った」と言ったら「そんなことないわよ~」と。母の中では普通すぎて、話すことでもない、そのようなものも多いです。
 私は母が表現した「石炭の小屋」をそのまま使いましたが、話しを聞いた後の私のイメージは(鞍山も同じと聞いたし、学校の多くは満鉄が建築した(本からの情報)ということなので)
 【学校にはボイラー室があり、そこで暖房を管理していた。そのため、ボイラー室にはたくさんの石炭が置いてあった。どの学校も同じような暖房設備】こんな感じです。
 お父さんの話しは(無理やりかもしれませんが)【戦後は机や椅子を石炭の代わりにボイラー室で燃やした】となりませんか?大連の子の子のお父さんが(当たり前すぎて)ボイラー室の存在を省略していたのかもしれません。お父さんから「教室で燃やした」などの言葉が出てきていたのならばストーブの可能性は高くなりますね。私も大連と鞍山の小学校の両方を聞いていたつもりですが、鞍山のみの話しだったのかもしれません。
 いつか誰かが解決してくれたら、いいですね。
 

Re: 小学校の暖房設備について

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月22日(日)01時26分44秒
返信・引用
  > No.1936[元記事へ]

zyunさんへのお返事です。

>  現在でも見られる、スチーム暖房でしたよ。教室に設けられた放熱器に蒸気を供給して暖房するものです。
> zyunの母校である、沙河口地区の霞小学校は、昭和7年の開校ですが、全教室スチーム暖房完備でした。お母上様との会話の通りで、往時大連は石炭が潤沢に供給されていましたね。

私が父から聞いたのは終戦後の冬は小学校の教室で暖を取る為に
学習机、椅子を燃やして暖を取ったと言う事です。
どのように燃やしたかは分かりません。
霞小と違い撒きストーブかも知れません?

10年程前の11月に大連に行ったのですが、
私は北海道に何度も行っているので寒さを舐めていました。
雪は無くとも大連の冬は寒くて寒くて苦労しました。


 

Re: 小学校の暖房設備について

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月21日(土)21時37分52秒
返信・引用 編集済
  > No.1929[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!こんばんわ!

先の、2017/10/13付でコメントされていた、大連における小学校の冬季の暖房についてですが、

>学校の暖房にあって、石炭の小屋があり、そこで石炭を燃やし、教室にある蛇腹(縦)の形状のパイプ?に熱が伝わり部屋が暖かくなる(パイプの中は水?)…母の言葉と絵を簡単に文章にするとこんな感じです。鞍山の小学校も同じような方法だったそうです。そのパイプの上にお弁当箱を乗せ温めておいたそうです。満洲での暖房の話しになると母は「中国には石炭がたくさんあるから」と続き、大陸の資源の豊富さを感じていたそうです。・・・

現在でも見られる、スチーム暖房でしたよ。教室に設けられた放熱器に蒸気を供給して暖房するものです。
zyunの母校である、沙河口地区の霞小学校は、昭和7年の開校ですが、全教室スチーム暖房完備でした。お母上様との会話の通りで、往時大連は石炭が潤沢に供給されていましたね。

>霞小学校から遠ざかる投稿ばかりですみません。・・・

全くご懸念に及びません。懐旧大連に関することでしたら、何でもご自由に書き込んでください。

それでは、またのご利用お待ちしております。謝々!! From zyun



 

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