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Re: NHKのファミリーヒストリー(…みたいな)

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年11月15日(水)01時37分1秒
返信・引用
  > No.1945[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

>  色々な方の体験談を今もネットや本で見つけると読んでいますが、終戦時に住んでいた場所で大きく違ってきますね。

そうですね。内陸から数百kmも逃避行した方が大変だったと思います。
大地の子、赤い月等を見ていたので父も大変だったと思っていたのですが、
当時の我家から大連港までは2km位でしょうか?
実際に行ってみて位置関係が分かりました。
大連に住んでいた方はドラマの牡丹江、奉天等と比べたら
地理的にはかなり良い環境だったと思います。

天皇の退位に伴い平成の次の年号も気になる所ですが、
私は康徳にも興味があります。

康徳(こうとく)は、満洲国の元号。帝政に移行した1934年3月1日から、
満洲国が崩壊した1945年8月18日まで使用された。

過去に話題も無かったようなので記しておきます。

 
 

NHKのファミリーヒストリー(…みたいな)

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年11月14日(火)21時00分53秒
返信・引用 編集済
   zyunさま、大連の子の子さん、こんばんは。

 URLありがとうございます。

 色々な方の体験談を今もネットや本で見つけると読んでいますが、終戦時に住んでいた場所で大きく違ってきますね。今まで知らなかったこともたくさんありました。
 大連の子の子さんのURLは、私も(よくネットで検索をしているので)読んだことがあり、「ボクの満洲 漫画家たちの敗戦体験」という本も読みました。
 母と引き揚げの話しをした時に「日本を初めて見た時、きれいだった?箱庭みたいに見えた?」と聞いたところ、(以前投稿した記事に繋がるのですが)「そんなこと思わなかったわね、それに日本には2度来たことがあった」だったのです。赤塚不二夫さんの感性豊かな言葉を話題にしなかったら、私はずっと(母は終戦で初めて日本に来たと)勘違いしたままだったのかもしれません。

 戦後の話しですが、
 ソ連兵・中国の方からの暴行・略奪などをされたことはなかったそうです。鞍山は昭和製鋼所の撤去作業(ソ連が国内へ持ち帰るため)があったため、祖父の仕事も(社員ではありませんが)とても忙しかったそうです。食べる物に困ったというような話しは聞きませんでした。大きな通りに出ると腕時計をたくさん身に着けたソ連兵がいた、自宅前に住んでいた女性は髪を短く刈っていた、ソ連の軍票、八路軍と国民党軍の銃声、これらは覚えているそうです。
 引き揚げに関しての知識を得た私は(母は知らないと思い)「日本政府の方針は残留だったので、日本に帰ってこられなかった可能性もあった」というような話しをしたら、「そのころは密航船というものがあってね、…」と。死んだら困るのでやめたそうですが、家族会議をしたことをかすかに覚えているそうです。

 母から聞いた後、ネットや本を読んだのですが、同じ鞍山でも辛い体験をした方はいました。また戦後の鞍山のことが書かれた資料を読むと、治安は良かったという印象は受けないので(大連よりは良かったのでは?と私は思います)、母は恵まれていたのだと思います(撫順に住んでいた方の話しは母の話しと似たものがありました)。

 母の話しに興味を持ち詳しく調べていくと、満洲・大連の色々なことがわかってくるのですが、終わりがないですね。
 大連での生活~引き揚げ(帰国後の生活)までを聞いたら、自分のファミリーヒストリーを知ることができたような感じがしました。さばを食べて蕁麻疹が出たことも、母にとっては良いことだったのだと思えてきます。

 戦後の話しはこれくらいなので、また、大連の話しを聞けたら聞いてきます。
 

大連からの引き揚げ記録

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年11月10日(金)00時15分5秒
返信・引用
  zyunさん、ひこうき雲さんへのお返事です。

こんばんは。

葫蘆島からの引き揚げに関する記事を見つけました。
申請書類とかもあり、当時の様子が感じられます。

大切な記録です。
これでいいのだ! ↓

http://www.tanken.com/hikiage.html

 

Re: 大連からの引き揚げ記録

 投稿者:zyun  投稿日:2017年11月 3日(金)16時26分24秒
返信・引用 編集済
  > No.1942[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!こんにちわ

>  引き揚げの話し…
鞍山から葫蘆島まではぎゅうぎゅう詰めの無蓋車。その間(2~3日?)は雨が降らなく、助かったそうです。多くの方が体験談で書いていますが、やはり、列車は何度も止まったそうです。その度に祖父はお金を出し、まわりの人からも集め機関士?に届け・・・・

往時、引き揚げに際して、大変なご苦労をされていることが伺えます。大連でも、昭和21年の後半頃になると、葫蘆島からの引き揚げが始まったことが、風の便りに聞かれるようになりましたが、大連の引き揚げは何時になるのか、確かな情報がありませんで、不安と苛立ちで一杯でした。
 往時、zyunの状況を記した稚拙な駄文(戦後50年読者の証言 私たちが幼かった頃)を,下記のとおり添付掲出しております↓。お暇の折にご笑覧頂ければ幸いです。

それでは復のお越しを楽しみにしています。謝々!!From zyun






http://dairenkko.server-shared.com/profil.html

 

コロトウまでは無蓋車

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月29日(日)22時28分22秒
返信・引用
   zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の中のみなさま、こんばんは。

 引き揚げの話し…

 鞍山から葫蘆島まではぎゅうぎゅう詰めの無蓋車。その間(2~3日?)は雨が降らなく、助かったそうです。多くの方が体験談で書いていますが、やはり、列車は何度も止まったそうです。その度に祖父はお金を出し、まわりの人からも集め機関士?に届けたので、祖父と一緒にいた時間は少なかったそうです。
 母が見たのは一面のスイカ畑。そして遠く向こうに小さく見える民家。そんな景色を見ていたので、実家に帰る列車の中で、線路脇に建つ家を見て、「こんな近くに家がある」と日本の風景に驚いたことを覚えているそうです。
 私は葫蘆島まで、一部分でも線路に沿って歩いたのかと思っていたのですが、そんなことはなかったそうです。

 葫蘆島では自炊
 乗船までの間(1か月弱?)は自炊生活だったそうです。そのための鍋は用意してきていたそうです。母達の引き揚げは夏場でしたが、冬の人達は寒さが加わるので大変だったと思うと話してました。

 日本へ
 佐世保へ入港。船の名前・入港日・船内での様子も「狭かった」以外は(あまり)覚えていないそうです。しかし、白い粉(DDT)の散布は母も記憶に残っているそうです。



 

引き揚げ

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月24日(火)23時24分24秒
返信・引用
  > No.1940[元記事へ]

zyunさんへのお返事です。

こんばんは。

>zyunも、貴兄父上様と全く同様な体験をしましたね。引き揚げ船名はお聞きにならなかったでしょうか?

残念ながら船名は聞いていないので不明です。
S22/11の引き揚げだったと聞いたような気もしますが、記憶が確かじゃありません。

だだこんな事も聞いています。
なかなか帰国の順番が来ない中、父の姉が満鉄に勤めていたので、
他の一般市民よりは少し早く帰国出来たと聞いた事があります。

 

Re: 大連からの引き揚げ

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月24日(火)21時25分7秒
返信・引用 編集済
  > No.1939[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。

大連の子の子さん こんばんわ!いつもながら「霞会掲示板」へのサポートに感謝・感謝です。

>父はS22に大連港から貨物船で佐世保港に到着して初めて日本に来たと言っていました。 船内で亡くなる日本人も多く、途中警笛音と共に海に投機されたと聞きました。 佐世保港では白いDDTという物を噴霧されたそうです・・・

zyunも、貴兄父上様と全く同様な体験をしましたね。引き揚げ船名はお聞きにならなかったでしょうか?
zyunが乗船した引き揚げ船は、急遽改造した貨物船のようで,船底で寝起きしたことが想い起されます。周囲に船酔いする人もみられ、初めての母国日本を目指すzyun少年としては、不快極まる想いの中、一方で帰国できる喜びを感じたことも否めません。

それでは復のお越しを楽しみにしています。再見!!From zyun





 

小学校の暖房設備について

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月22日(日)23時37分11秒
返信・引用
  ひこうき雲さんへのお返事です。

>お父さんの話しは(無理やりかもしれませんが)【戦後は机や椅子を石炭の代わりにボイラー室で燃やした】となりませんか

そうかも知れませんが、もう確認する事が出来ません。

父はS22に大連港から貨物船で佐世保港に到着して初めて日本に来たと言っていました。
船内で亡くなる日本人も多く、途中警笛音と共に海に投機されたと聞きました。
佐世保港では白いDDTという物を噴霧されたそうです。
その後汽車で本州へ向かったそうです。
車窓からの景色でたびたび石の塊が積んであるのを見て母親に尋ねたそうです。
そこで日本のお墓を知ったそうです。
 

Re: 小学校の暖房設備について

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月22日(日)21時08分6秒
返信・引用
  大連の子の子さんへのお返事です。

> 私が父から聞いたのは終戦後の冬は小学校の教室で暖を取る為に
> 学習机、椅子を燃やして暖を取ったと言う事です。
> どのように燃やしたかは分かりません。
> 霞小と違い撒きストーブかも知れません?

 疑問は出てきますよね、私も疑問だらけです。
 私は母の話しの前後をすべて知ったうえで、聞いているわけではないので、勝手にイメージ、勝手に勘違いしたまま聞いていることが多いです(何度も書きますが)。一番大きな勘違いは母が引き揚げで初めて日本の土を踏んだのかと思っていたら、それまでに2度来たことがあったと聞いた時です。引き揚げの話しを聞いていた時だったので、私は「あれっ、そうなの?」、今までイメージしてきたものと……違う、でした。
 電話もあったのか聞いてみたのですが、「両親が仕事で使うからあったわね」と。私は「手紙や電報の時代かと思った」と言ったら「そんなことないわよ~」と。母の中では普通すぎて、話すことでもない、そのようなものも多いです。
 私は母が表現した「石炭の小屋」をそのまま使いましたが、話しを聞いた後の私のイメージは(鞍山も同じと聞いたし、学校の多くは満鉄が建築した(本からの情報)ということなので)
 【学校にはボイラー室があり、そこで暖房を管理していた。そのため、ボイラー室にはたくさんの石炭が置いてあった。どの学校も同じような暖房設備】こんな感じです。
 お父さんの話しは(無理やりかもしれませんが)【戦後は机や椅子を石炭の代わりにボイラー室で燃やした】となりませんか?大連の子の子のお父さんが(当たり前すぎて)ボイラー室の存在を省略していたのかもしれません。お父さんから「教室で燃やした」などの言葉が出てきていたのならばストーブの可能性は高くなりますね。私も大連と鞍山の小学校の両方を聞いていたつもりですが、鞍山のみの話しだったのかもしれません。
 いつか誰かが解決してくれたら、いいですね。
 

Re: 小学校の暖房設備について

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月22日(日)01時26分44秒
返信・引用
  > No.1936[元記事へ]

zyunさんへのお返事です。

>  現在でも見られる、スチーム暖房でしたよ。教室に設けられた放熱器に蒸気を供給して暖房するものです。
> zyunの母校である、沙河口地区の霞小学校は、昭和7年の開校ですが、全教室スチーム暖房完備でした。お母上様との会話の通りで、往時大連は石炭が潤沢に供給されていましたね。

私が父から聞いたのは終戦後の冬は小学校の教室で暖を取る為に
学習机、椅子を燃やして暖を取ったと言う事です。
どのように燃やしたかは分かりません。
霞小と違い撒きストーブかも知れません?

10年程前の11月に大連に行ったのですが、
私は北海道に何度も行っているので寒さを舐めていました。
雪は無くとも大連の冬は寒くて寒くて苦労しました。


 

Re: 小学校の暖房設備について

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月21日(土)21時37分52秒
返信・引用 編集済
  > No.1929[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!こんばんわ!

先の、2017/10/13付でコメントされていた、大連における小学校の冬季の暖房についてですが、

>学校の暖房にあって、石炭の小屋があり、そこで石炭を燃やし、教室にある蛇腹(縦)の形状のパイプ?に熱が伝わり部屋が暖かくなる(パイプの中は水?)…母の言葉と絵を簡単に文章にするとこんな感じです。鞍山の小学校も同じような方法だったそうです。そのパイプの上にお弁当箱を乗せ温めておいたそうです。満洲での暖房の話しになると母は「中国には石炭がたくさんあるから」と続き、大陸の資源の豊富さを感じていたそうです。・・・

現在でも見られる、スチーム暖房でしたよ。教室に設けられた放熱器に蒸気を供給して暖房するものです。
zyunの母校である、沙河口地区の霞小学校は、昭和7年の開校ですが、全教室スチーム暖房完備でした。お母上様との会話の通りで、往時大連は石炭が潤沢に供給されていましたね。

>霞小学校から遠ざかる投稿ばかりですみません。・・・

全くご懸念に及びません。懐旧大連に関することでしたら、何でもご自由に書き込んでください。

それでは、またのご利用お待ちしております。謝々!! From zyun



 

Re: マントウ?

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月19日(木)00時17分27秒
返信・引用
  > No.1934[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

こんばんは。

> 池上彰さんの番組でタイミングよく中国の新幹線と瀋陽駅の映像を見ました。
私もあの番組見ましたあの車両に乗りました。

瀋陽駅前の映像が映っていましたが、逆のアングルで放送されたら瀋陽駅舎が
映ったと思いますが、東京駅と勘違いする視聴者もいるでしょうから
あえて放送しなかったと思いました。
瀋陽駅は東京駅をモチーフにしたレンガ作りの駅舎ですから。

マントウと言うんでしょうか?
ツアーで旅順に行った時に円卓の回転テーブルに次から次へと中国料理が
出て来てその中に肉の入っていない小さな肉まんもどきがあったような気がします。
それかも知れません。

 

マントウ?

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月18日(水)22時17分37秒
返信・引用 編集済
   zyun様、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。

 引き揚げの話し…

 引き揚げ当日(7月)、祖父の仕事を手伝って(アルバイト?)くれていた大学生(中国の方)が風呂敷にたくさんの白いおまんじゅうを届けてくれたそうです(事前にお願いした>好意 どちらかは不明)。そのおまんじゅうは中身がなく、それでいてほのかに甘い。密度が濃く、ずっしり重い。夏場なのに傷むことがなく、とても助かったそうです。母はそのおまんじゅうをそれまで食べたことはなかったみたいです。これは中国の【饅頭(マントウ)】ですね。

 大連の子の子さんへ

 中国のお話し、ありがとうございます。読んだ後、池上彰さんの番組でタイミングよく中国の新幹線と瀋陽駅の映像を見ました。私は戦前の奉天を趣のある場所だと感じていたのですが、駅前はこのように変化したのですね。
 母から戦後と引き揚げの話しも聞いてきました。鞍山という街の特徴が関係するのか、大連(大連の子の子のお父さんの体験談)とは戦後の様子が違いました。鞍山でも住んでいた場所で、随分と体験したことが違うことも知りました(鞍山に住んでいた方の体験談を読んで)。また少しずつ別の話題と合わせ書いていきます。

それではまたお邪魔させて頂きます。
 

Re: 大連夏家河子海水浴場について

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月17日(火)01時52分31秒
返信・引用
  zyunさんへのお返事です。


> 大連夏家河子海水浴場は、大連市甘井子区の北部にあります。大連市内からは、16キロメートル位、離れています。海浜も広く、波も穏やかで平坦な砂浜であったように想います。水泳の初心者向きであったことから、往時、先生の引率のもと、小学生の夏季合宿が行われていましたね。勿論、お母様同様,zyunも喜び勇んでで参加していましたね。往時、市外電車の運行はなく、沙河口駅から普通列車で行ったように想います、

 ありがとうございます、助かりました。投稿の後も考えたのですが、写真でみた市内電車では、1クラスくらいしか乗れない?…と思ったので、それならば、また新たに母に聞かないと理解できないと思っていたところでした。

 母との会話は、私は理解できないまま(時々は勘違いしたまま)聞いているものが多いです。母の記憶も確かではないだろうと思っているので、ネットで少し検証もしてます。しかし、ネットで検索しても当時と現在が違いすぎわからなかったり、思うように地図を探せなかったり(範囲が狭すぎ・広すぎで位置関係がわからない)で、文章にするには難しいな、と思いながら書いています。

 市場(一つ前の投稿)ですが、ネットでは全く検索できず、文献みたいなものに「信濃町市場」の文字を見つけ、地図上の町名と同じなので、これかな?と思い書き始めました。しかしこれがわかったことで、こちらの掲示板にも過去に登場(写真での建物の位置確認?)していることに気づきました(いろいろな方の書き込はちょっとしたことでも参考になりますね)。

 今後も訂正、補足をしていただけると助かります。お願いします。
 またお邪魔させて頂きます。
 

Re: 大連夏家河子海水浴場について

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月16日(月)16時26分58秒
返信・引用 編集済
  > No.1930[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!ニーハォ!

霞会掲示板」にコメント頂き誠にありがとうございます。どうやら、懐旧大連情報について、本格的に調査研究を始められましたね。zyunが、承知している範囲でお答えしますね。

>  夏家河子海水浴場も…母:「広場から電車が出てるでしょう、そこから乗ったのよ」私:大広場に電車…そんな写真見たような。その電車に乗って行ったということかな?大広場から夏家河子方面に行く電車はあるのだろうか?・・・
> (ブログに)列車で30分と書いている人がいる。電車?列車?母はどこから乗ったのだろう?そう言えば夏家河子と大広場の位置関係がわからない このように悩みながら書いているので、訂正や補足など、書き込んで下さると助かります。・・・

大連夏家河子海水浴場は、大連市甘井子区の北部にあります。大連市内からは、16キロメートル位、離れています。海浜も広く、波も穏やかで平坦な砂浜であったように想います。水泳の初心者向きであったことから、往時、夏休みに入ると先生の引率のもと、小学生の夏季合宿訓練が行われていましたね。勿論、お母様同様,zyunも喜び勇んでで参加していましたね。往時、市外電車の運行はなく、沙河口駅から普通列車で行ったように想います、
参考までに、画像を添付してみます。
それでは復のお越しを楽しみにしています。再見!! From zyun
 

小学校時代

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月16日(月)00時46分57秒
返信・引用
  ひこうき雲さんへのお返事です。

お母様の経験談ありがとうございます。
聞いた事の無いお話でした。

私は通勤で上野駅を利用したり、外観を見たりしますので大連駅と比較すると
似てはいますが、スケール感では大連駅の方が大きいと思います。
現在の上野駅はJRで新幹線含めて22番線まであるし、
メトロ銀座線もあるので内部は複雑です。
それに比較したら大連駅は大きくて広いが電車はそんなに多くは有りませんでした。

私は大連旅行で大連~瀋陽(奉天)間を中国版の特急(新幹線)に乗りました。
対面のBOX席が指定席でした。

私以外は若い中国人女性3人でした。ばっちりメイクした女性です。
言葉は理解出来ませんでしたが、
突然ブランドバックから各自桃を取り出しました。
マニキュアの付いた指で桃の皮をむいて
その後は丸のままかぶりついていました。

日本人女性とは違うなと見ていました。
3人は桃の皮と種を袋に入れるでも無く、
直にセンターテーブルに置いて途中下車して行きました。
もちろんテーブルはべとべとです。
中国の人は身なりはきれいになってもこんなもんですね。
日本の新幹線じゃ考えられない光景でした。






>  zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。
>
> zyunさまへのお返事です。
>
> >  現在の大連駅は、昭和12年6月1日、現在の市街中心地に、東京・上野駅の設計をモデルにした、大連駅舎が新築完成したとあります。
>
> ありがとうございます。「上野駅の設計をモデル」の意味を私は外観的なもの(のみ)と勘違いしていました。大連の子の子さんも「上野駅がモチーフ」と書いてくれましたね。私は何かを気づいていないと思い、上野駅を調べてみて、お二人の言葉の意味を理解することができました。
>
> 大連の子の子さんへ
>
>  小学校のこと、聞いてきました。既に知っていることもあるかな?です。そしてこちらの掲示板で登場済みの内容もありますが(同じことを書くことになりますが)、母目線での話しとして読んで下さい。
>
>  ・夏家河子海水浴場
>  小学校3年生になると電車で行ったそうです。1、2年生は年齢的な面からお留守番(行かない)。
> 砂浜に海の家のような建物(脱衣場)があり、これが横に長~く連なっている(当時)のだそうです。夏家河子は、着いた頃(午前)には、海水が沖の方にあるけれど、帰る頃には、建物近くまで来ているそうです。私がネットから探した写真を見て(海水が建物の近くにあったので)「帰る頃はこんな感じ」という説明でした。遠浅で、楽しかった記憶として残っているようです。「広場(大広場?)から電車(列車?)で30分くらい」と言ったような…。
>
>  ・ランドセルと運動靴
>  ランドセルと運動靴で登校。私は母と話しながら父にも(当時の日本)聞いたのですが、父は「布バッグに下駄かな?」でした。鞍山でもランドセルを特別とは感じなかったようなので、みんなランドセルだったのかもと言ってました。
>
>  ・半地下のトイレ
>  トイレは半地下で窓が上部にしかないので(暗くて)怖かったそうです。「なぜ半地下?」と聞いたら、母は防寒対策なのでは?でした(違うかな?)。半地下を意識しながら建物の写真を見ると地面近くに窓らしきものがある建物(満鉄の本社も)が多いような気がします(実際は窓ではないのかも)。
>
>  ・学校の暖房
>  石炭の小屋があり、そこで石炭を燃やし、教室にある蛇腹(縦)の形状のパイプ?に熱が伝わり部屋が暖かくなる(パイプの中は水?)…母の言葉と絵を簡単に文章にするとこんな感じです。鞍山の小学校も同じような方法だったそうです。そのパイプの上にお弁当箱を乗せ温めておいたそうです。満洲での暖房の話しになると母は「中国には石炭がたくさんあるから」と続き、大陸の資源の豊富さを感じていたそうです。
>
>  ・帰りの寄り道
>  以前、「ヤマトホテルの回転扉をぐるっと寄り道して帰った」と書いたのですが、写真を見ながら聞いたら「正面玄関ではない」でした。正面玄関には警備員(ドアマン?)もお客さまもいたから、そんなことはさすがにしない、と言うことでした。ホテルの側面にも回転扉がありそこには誰もいなかったので、こっそり廻らせてもらったそうです。
>
>  文章にするのは難しいですね。
>  地図を持っていったことでわかったこともあるので、また別の話しでお邪魔させて頂きます。
>
 

二つの地図からわかったこと

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月16日(月)00時27分18秒
返信・引用 編集済
    zyun様、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。


 大連を調べ始めた頃から探していた市場がわかりました。地図の力は大きいですね。そして地図のおかげで、母も忘れていた記憶を思い出せるみたいです。ただ、私が母の話しを勝手にイメージしながら聞いているところがあるので、文章にした時に違うかもしれないという不安が大きいです。

 夏家河子海水浴場も…
 母:「広場から電車が出てるでしょう、そこから乗ったのよ」
 私:大広場に電車…そんな写真見たような。その電車に乗って行ったということかな?

 文章を書く段階になり(ネットで検索しながら)
 大広場から夏家河子方面に行く電車はあるのだろうか?
(ブログに)列車で30分と書いている人がいる。電車?列車?母はどこから乗ったのだろう?そう言えば夏家河子と大広場の位置関係がわからない。
 このように悩みながら書いているので、訂正や補足など、書き込んで下さると助かります。

 二つの地図からわかったこと

 母が2日に1度買い物に出かけていたという市場は、ダルニー橋と常盤橋の間にありました(信濃町市場?)。もう今はないですね。この市場を見つけた地図(【図説 大連 都市物語 西澤泰彦】)はこちらの掲示板の中で見たものと同じでした(大連の子の子さんへの佐渡町の地図。貼られていたのは地図の一部)。
 この地図には【大広場小学校→第4小学校】、【弥生高等女学校→大連市立大連高等女学校】と記載されているので、いつの年のものなのかな?です。同じ本に1935年の大広場周辺の地図があり(二つの地図は町内の番地が微妙に違う)この(1935年の)地図を見たことで、母が住んでいた場所がわかりました。
 母から(地図を見ながら)「ここには、塀で囲われ、真ん中に門のあるお宅があり、今思えば中国の方だったのかも」と聞くと、中国の方の家はこんな感じだったのかな?など私のイメージも少しふくらみました。

 円形の市場

 市場の規模は違うが(大連>鞍山)、鞍山も同じ形をしていたので、中国の市場はこういう形なのかな?と母は思ったそうです。
 ドーナツでイメージすると、ドーナツ部分に店舗が並び、内側に入るための通路が何か所かあり、客は内側から買い物をするのだそうです。市場=食材しか考えなかったので、他にはなにも聞いてきませんでした。雰囲気とか、売られていた商品なども聞いてくればよかったです。

 大連の子の子さんへ

 大広場から市場に向かう途中に西広場があるので、西広場を母は通っていたのかもしれません(以前、西広場の方には行ったことがないと書いたのに)。道は色々あるのでわかりませんが、でも何かを思い出したのか、家族写真を撮ったので探してみると言ってました(土田写真館を思い出したのかもです)。

 zyun様へ

 霞小から遠ざかる投稿ばかりですみません。
 またお邪魔させて頂きます。

 

小学校時代

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月13日(金)22時55分12秒
返信・引用 編集済
   zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。

zyunさまへのお返事です。

>  現在の大連駅は、昭和12年6月1日、現在の市街中心地に、東京・上野駅の設計をモデルにした、大連駅舎が新築完成したとあります。

ありがとうございます。「上野駅の設計をモデル」の意味を私は外観的なもの(のみ)と勘違いしていました。大連の子の子さんも「上野駅がモチーフ」と書いてくれましたね。私は何かを気づいていないと思い、上野駅を調べてみて、お二人の言葉の意味を理解することができました。

大連の子の子さんへ

 小学校のこと、聞いてきました。既に知っていることもあるかな?です。そしてこちらの掲示板で登場済みの内容もありますが(同じことを書くことになりますが)、母目線での話しとして読んで下さい。

 ・夏家河子海水浴場
 小学校3年生になると電車で行ったそうです。1、2年生は年齢的な面からお留守番(行かない)。
砂浜に海の家のような建物(脱衣場)があり、これが横に長~く連なっている(当時)のだそうです。夏家河子は、着いた頃(午前)には、海水が沖の方にあるけれど、帰る頃には、建物近くまで来ているそうです。私がネットから探した写真を見て(海水が建物の近くにあったので)「帰る頃はこんな感じ」という説明でした。遠浅で、楽しかった記憶として残っているようです。「広場(大広場?)から電車(列車?)で30分くらい」と言ったような…。

 ・ランドセルと運動靴
 ランドセルと運動靴で登校。私は母と話しながら父にも(当時の日本)聞いたのですが、父は「布バッグに下駄かな?」でした。鞍山でもランドセルを特別とは感じなかったようなので、みんなランドセルだったのかもと言ってました。

 ・半地下のトイレ
 トイレは半地下で窓が上部にしかないので(暗くて)怖かったそうです。「なぜ半地下?」と聞いたら、母は防寒対策なのでは?でした(違うかな?)。半地下を意識しながら建物の写真を見ると地面近くに窓らしきものがある建物(満鉄の本社も)が多いような気がします(実際は窓ではないのかも)。

 ・学校の暖房
 石炭の小屋があり、そこで石炭を燃やし、教室にある蛇腹(縦)の形状のパイプ?に熱が伝わり部屋が暖かくなる(パイプの中は水?)…母の言葉と絵を簡単に文章にするとこんな感じです。鞍山の小学校も同じような方法だったそうです。そのパイプの上にお弁当箱を乗せ温めておいたそうです。満洲での暖房の話しになると母は「中国には石炭がたくさんあるから」と続き、大陸の資源の豊富さを感じていたそうです。

 ・帰りの寄り道
 以前、「ヤマトホテルの回転扉をぐるっと寄り道して帰った」と書いたのですが、写真を見ながら聞いたら「正面玄関ではない」でした。正面玄関には警備員(ドアマン?)もお客さまもいたから、そんなことはさすがにしない、と言うことでした。ホテルの側面にも回転扉がありそこには誰もいなかったので、こっそり廻らせてもらったそうです。

 文章にするのは難しいですね。
 地図を持っていったことでわかったこともあるので、また別の話しでお邪魔させて頂きます。
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月 6日(金)20時29分30秒
返信・引用
  > No.1927[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!こんばんわ!

>  キーワード+その他

> 大連駅 乗る人、降りる人で階が違い、日本の駅のシステムと違うことを私は以前から聞いたことがありました。立派だったということもあり、大連駅の記憶は忘れないみたいです。・・・・

 現在の大連駅は、昭和12年6月1日、現在の市街中心地に、東京・上野駅の設計をモデルにした、大連駅舎が新築完成したとあります。御母上様には、さぞかし、戦前の大連駅をよーくご存知のことと思います。画像を添付しますね。

それでは復のお越しを楽しみにしています。謝々!! 再見!! From zyun
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月 1日(日)23時25分51秒
返信・引用 編集済
  zyunさんへのお返事です。

 zyun様、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様こんばんわ。

 zyun様へ

 コメントありがとうございます。
 満洲を知ると、zyun様のお父様が勤務していた満鉄の力の大きさがわかってきます。線路を作り、駅を作り、街を作る。どのくらいの勢いで(建築物も魅力的)作っていったのだろう…写真集を見ながら考えるのですがそのスピードはまったく想像できないままです。
 鏡ケ池の写真ありがとうございます。今では憩いの場所となっているみたいですね。

 大連の子の子さんへ

 東本願寺の話しは、友達と徒歩で同級生のお宅へ遊びにいったそうです。その日は東本願寺のお祭り?の日でもあったそうです。母に「用心深い生活をしていたのでは?」と尋ねたら「友達と一緒だったから」と。東本願寺は他の場所にもあることがわかったのですが、西本願寺と東本願寺を一緒に覚えていたことと、東本願寺が立派だったことを忘れていないので、遠さも気にならず、往復、徒歩で出かけたということになるようです。

 キーワード+その他
・西広場
 広場があることは覚えていましたが、西広場方向にはあまり出かけたことはなかったそうです。
・大連駅
 乗る人、降りる人で階が違い、日本の駅のシステムと違うことを私は以前から聞いたことがありました。立派だったということもあり、大連駅の記憶は忘れないみたいです。
・大連港
 母は一度も出かけたことはなかったそうですが、何度も出かけたことがあった祖母から、大連港の壮大さを母・叔母は聞いていたそうです。
・星ヶ浦
 海水浴で遊びに出かけたことはないそうです。ここには高級別荘があったことは知っていて、(別荘を持つ方々の)文化的レベルが全然違うとは感じたそうです。
・大連動物園と電気遊園
 知らない(出かけたことはない)そうです。
・旅順博物館
 知らないというので、「遠足はどこに行ったの?」と聞いたら、「行ったことない」と返ってきました。私「えっ?」でしたが、遠足を忘れたのか、本当に遠足という行事に参加したことがないのかのどちらかです。
・大広場の鷹
 知らないそうです。「男の子の遊びはわからないわ」でした。では何して遊んでいたのか尋ねたら近所に官舎があったことを思い出し、(今思えば)教頭先生のお子さんと官舎の前で遊んでいたのだそうです。

 近いうちに実家に行くのでまた何か聞いてきます。

 それでは、またお邪魔させて頂きます。
 

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