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Re: マントウ?

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月19日(木)00時17分27秒
返信・引用
  > No.1934[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

こんばんは。

> 池上彰さんの番組でタイミングよく中国の新幹線と瀋陽駅の映像を見ました。
私もあの番組見ましたあの車両に乗りました。

瀋陽駅前の映像が映っていましたが、逆のアングルで放送されたら瀋陽駅舎が
映ったと思いますが、東京駅と勘違いする視聴者もいるでしょうから
あえて放送しなかったと思いました。
瀋陽駅は東京駅をモチーフにしたレンガ作りの駅舎ですから。

マントウと言うんでしょうか?
ツアーで旅順に行った時に円卓の回転テーブルに次から次へと中国料理が
出て来てその中に肉の入っていない小さな肉まんもどきがあったような気がします。
それかも知れません。

 
 

マントウ?

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月18日(水)22時17分37秒
返信・引用 編集済
   zyun様、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。

 引き揚げの話し…

 引き揚げ当日(7月)、祖父の仕事を手伝って(アルバイト?)くれていた大学生(中国の方)が風呂敷にたくさんの白いおまんじゅうを届けてくれたそうです(事前にお願いした>好意 どちらかは不明)。そのおまんじゅうは中身がなく、それでいてほのかに甘い。密度が濃く、ずっしり重い。夏場なのに傷むことがなく、とても助かったそうです。母はそのおまんじゅうをそれまで食べたことはなかったみたいです。これは中国の【饅頭(マントウ)】ですね。

 大連の子の子さんへ

 中国のお話し、ありがとうございます。読んだ後、池上彰さんの番組でタイミングよく中国の新幹線と瀋陽駅の映像を見ました。私は戦前の奉天を趣のある場所だと感じていたのですが、駅前はこのように変化したのですね。
 母から戦後と引き揚げの話しも聞いてきました。鞍山という街の特徴が関係するのか、大連(大連の子の子のお父さんの体験談)とは戦後の様子が違いました。鞍山でも住んでいた場所で、随分と体験したことが違うことも知りました(鞍山に住んでいた方の体験談を読んで)。また少しずつ別の話題と合わせ書いていきます。

それではまたお邪魔させて頂きます。
 

Re: 大連夏家河子海水浴場について

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月17日(火)01時52分31秒
返信・引用
  zyunさんへのお返事です。


> 大連夏家河子海水浴場は、大連市甘井子区の北部にあります。大連市内からは、16キロメートル位、離れています。海浜も広く、波も穏やかで平坦な砂浜であったように想います。水泳の初心者向きであったことから、往時、先生の引率のもと、小学生の夏季合宿が行われていましたね。勿論、お母様同様,zyunも喜び勇んでで参加していましたね。往時、市外電車の運行はなく、沙河口駅から普通列車で行ったように想います、

 ありがとうございます、助かりました。投稿の後も考えたのですが、写真でみた市内電車では、1クラスくらいしか乗れない?…と思ったので、それならば、また新たに母に聞かないと理解できないと思っていたところでした。

 母との会話は、私は理解できないまま(時々は勘違いしたまま)聞いているものが多いです。母の記憶も確かではないだろうと思っているので、ネットで少し検証もしてます。しかし、ネットで検索しても当時と現在が違いすぎわからなかったり、思うように地図を探せなかったり(範囲が狭すぎ・広すぎで位置関係がわからない)で、文章にするには難しいな、と思いながら書いています。

 市場(一つ前の投稿)ですが、ネットでは全く検索できず、文献みたいなものに「信濃町市場」の文字を見つけ、地図上の町名と同じなので、これかな?と思い書き始めました。しかしこれがわかったことで、こちらの掲示板にも過去に登場(写真での建物の位置確認?)していることに気づきました(いろいろな方の書き込はちょっとしたことでも参考になりますね)。

 今後も訂正、補足をしていただけると助かります。お願いします。
 またお邪魔させて頂きます。
 

Re: 大連夏家河子海水浴場について

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月16日(月)16時26分58秒
返信・引用 編集済
  > No.1930[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!ニーハォ!

霞会掲示板」にコメント頂き誠にありがとうございます。どうやら、懐旧大連情報について、本格的に調査研究を始められましたね。zyunが、承知している範囲でお答えしますね。

>  夏家河子海水浴場も…母:「広場から電車が出てるでしょう、そこから乗ったのよ」私:大広場に電車…そんな写真見たような。その電車に乗って行ったということかな?大広場から夏家河子方面に行く電車はあるのだろうか?・・・
> (ブログに)列車で30分と書いている人がいる。電車?列車?母はどこから乗ったのだろう?そう言えば夏家河子と大広場の位置関係がわからない このように悩みながら書いているので、訂正や補足など、書き込んで下さると助かります。・・・

大連夏家河子海水浴場は、大連市甘井子区の北部にあります。大連市内からは、16キロメートル位、離れています。海浜も広く、波も穏やかで平坦な砂浜であったように想います。水泳の初心者向きであったことから、往時、夏休みに入ると先生の引率のもと、小学生の夏季合宿訓練が行われていましたね。勿論、お母様同様,zyunも喜び勇んでで参加していましたね。往時、市外電車の運行はなく、沙河口駅から普通列車で行ったように想います、
参考までに、画像を添付してみます。
それでは復のお越しを楽しみにしています。再見!! From zyun
 

小学校時代

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年10月16日(月)00時46分57秒
返信・引用
  ひこうき雲さんへのお返事です。

お母様の経験談ありがとうございます。
聞いた事の無いお話でした。

私は通勤で上野駅を利用したり、外観を見たりしますので大連駅と比較すると
似てはいますが、スケール感では大連駅の方が大きいと思います。
現在の上野駅はJRで新幹線含めて22番線まであるし、
メトロ銀座線もあるので内部は複雑です。
それに比較したら大連駅は大きくて広いが電車はそんなに多くは有りませんでした。

私は大連旅行で大連~瀋陽(奉天)間を中国版の特急(新幹線)に乗りました。
対面のBOX席が指定席でした。

私以外は若い中国人女性3人でした。ばっちりメイクした女性です。
言葉は理解出来ませんでしたが、
突然ブランドバックから各自桃を取り出しました。
マニキュアの付いた指で桃の皮をむいて
その後は丸のままかぶりついていました。

日本人女性とは違うなと見ていました。
3人は桃の皮と種を袋に入れるでも無く、
直にセンターテーブルに置いて途中下車して行きました。
もちろんテーブルはべとべとです。
中国の人は身なりはきれいになってもこんなもんですね。
日本の新幹線じゃ考えられない光景でした。






>  zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。
>
> zyunさまへのお返事です。
>
> >  現在の大連駅は、昭和12年6月1日、現在の市街中心地に、東京・上野駅の設計をモデルにした、大連駅舎が新築完成したとあります。
>
> ありがとうございます。「上野駅の設計をモデル」の意味を私は外観的なもの(のみ)と勘違いしていました。大連の子の子さんも「上野駅がモチーフ」と書いてくれましたね。私は何かを気づいていないと思い、上野駅を調べてみて、お二人の言葉の意味を理解することができました。
>
> 大連の子の子さんへ
>
>  小学校のこと、聞いてきました。既に知っていることもあるかな?です。そしてこちらの掲示板で登場済みの内容もありますが(同じことを書くことになりますが)、母目線での話しとして読んで下さい。
>
>  ・夏家河子海水浴場
>  小学校3年生になると電車で行ったそうです。1、2年生は年齢的な面からお留守番(行かない)。
> 砂浜に海の家のような建物(脱衣場)があり、これが横に長~く連なっている(当時)のだそうです。夏家河子は、着いた頃(午前)には、海水が沖の方にあるけれど、帰る頃には、建物近くまで来ているそうです。私がネットから探した写真を見て(海水が建物の近くにあったので)「帰る頃はこんな感じ」という説明でした。遠浅で、楽しかった記憶として残っているようです。「広場(大広場?)から電車(列車?)で30分くらい」と言ったような…。
>
>  ・ランドセルと運動靴
>  ランドセルと運動靴で登校。私は母と話しながら父にも(当時の日本)聞いたのですが、父は「布バッグに下駄かな?」でした。鞍山でもランドセルを特別とは感じなかったようなので、みんなランドセルだったのかもと言ってました。
>
>  ・半地下のトイレ
>  トイレは半地下で窓が上部にしかないので(暗くて)怖かったそうです。「なぜ半地下?」と聞いたら、母は防寒対策なのでは?でした(違うかな?)。半地下を意識しながら建物の写真を見ると地面近くに窓らしきものがある建物(満鉄の本社も)が多いような気がします(実際は窓ではないのかも)。
>
>  ・学校の暖房
>  石炭の小屋があり、そこで石炭を燃やし、教室にある蛇腹(縦)の形状のパイプ?に熱が伝わり部屋が暖かくなる(パイプの中は水?)…母の言葉と絵を簡単に文章にするとこんな感じです。鞍山の小学校も同じような方法だったそうです。そのパイプの上にお弁当箱を乗せ温めておいたそうです。満洲での暖房の話しになると母は「中国には石炭がたくさんあるから」と続き、大陸の資源の豊富さを感じていたそうです。
>
>  ・帰りの寄り道
>  以前、「ヤマトホテルの回転扉をぐるっと寄り道して帰った」と書いたのですが、写真を見ながら聞いたら「正面玄関ではない」でした。正面玄関には警備員(ドアマン?)もお客さまもいたから、そんなことはさすがにしない、と言うことでした。ホテルの側面にも回転扉がありそこには誰もいなかったので、こっそり廻らせてもらったそうです。
>
>  文章にするのは難しいですね。
>  地図を持っていったことでわかったこともあるので、また別の話しでお邪魔させて頂きます。
>
 

二つの地図からわかったこと

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月16日(月)00時27分18秒
返信・引用 編集済
    zyun様、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。


 大連を調べ始めた頃から探していた市場がわかりました。地図の力は大きいですね。そして地図のおかげで、母も忘れていた記憶を思い出せるみたいです。ただ、私が母の話しを勝手にイメージしながら聞いているところがあるので、文章にした時に違うかもしれないという不安が大きいです。

 夏家河子海水浴場も…
 母:「広場から電車が出てるでしょう、そこから乗ったのよ」
 私:大広場に電車…そんな写真見たような。その電車に乗って行ったということかな?

 文章を書く段階になり(ネットで検索しながら)
 大広場から夏家河子方面に行く電車はあるのだろうか?
(ブログに)列車で30分と書いている人がいる。電車?列車?母はどこから乗ったのだろう?そう言えば夏家河子と大広場の位置関係がわからない。
 このように悩みながら書いているので、訂正や補足など、書き込んで下さると助かります。

 二つの地図からわかったこと

 母が2日に1度買い物に出かけていたという市場は、ダルニー橋と常盤橋の間にありました(信濃町市場?)。もう今はないですね。この市場を見つけた地図(【図説 大連 都市物語 西澤泰彦】)はこちらの掲示板の中で見たものと同じでした(大連の子の子さんへの佐渡町の地図。貼られていたのは地図の一部)。
 この地図には【大広場小学校→第4小学校】、【弥生高等女学校→大連市立大連高等女学校】と記載されているので、いつの年のものなのかな?です。同じ本に1935年の大広場周辺の地図があり(二つの地図は町内の番地が微妙に違う)この(1935年の)地図を見たことで、母が住んでいた場所がわかりました。
 母から(地図を見ながら)「ここには、塀で囲われ、真ん中に門のあるお宅があり、今思えば中国の方だったのかも」と聞くと、中国の方の家はこんな感じだったのかな?など私のイメージも少しふくらみました。

 円形の市場

 市場の規模は違うが(大連>鞍山)、鞍山も同じ形をしていたので、中国の市場はこういう形なのかな?と母は思ったそうです。
 ドーナツでイメージすると、ドーナツ部分に店舗が並び、内側に入るための通路が何か所かあり、客は内側から買い物をするのだそうです。市場=食材しか考えなかったので、他にはなにも聞いてきませんでした。雰囲気とか、売られていた商品なども聞いてくればよかったです。

 大連の子の子さんへ

 大広場から市場に向かう途中に西広場があるので、西広場を母は通っていたのかもしれません(以前、西広場の方には行ったことがないと書いたのに)。道は色々あるのでわかりませんが、でも何かを思い出したのか、家族写真を撮ったので探してみると言ってました(土田写真館を思い出したのかもです)。

 zyun様へ

 霞小から遠ざかる投稿ばかりですみません。
 またお邪魔させて頂きます。

 

小学校時代

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月13日(金)22時55分12秒
返信・引用 編集済
   zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様、こんばんは。

zyunさまへのお返事です。

>  現在の大連駅は、昭和12年6月1日、現在の市街中心地に、東京・上野駅の設計をモデルにした、大連駅舎が新築完成したとあります。

ありがとうございます。「上野駅の設計をモデル」の意味を私は外観的なもの(のみ)と勘違いしていました。大連の子の子さんも「上野駅がモチーフ」と書いてくれましたね。私は何かを気づいていないと思い、上野駅を調べてみて、お二人の言葉の意味を理解することができました。

大連の子の子さんへ

 小学校のこと、聞いてきました。既に知っていることもあるかな?です。そしてこちらの掲示板で登場済みの内容もありますが(同じことを書くことになりますが)、母目線での話しとして読んで下さい。

 ・夏家河子海水浴場
 小学校3年生になると電車で行ったそうです。1、2年生は年齢的な面からお留守番(行かない)。
砂浜に海の家のような建物(脱衣場)があり、これが横に長~く連なっている(当時)のだそうです。夏家河子は、着いた頃(午前)には、海水が沖の方にあるけれど、帰る頃には、建物近くまで来ているそうです。私がネットから探した写真を見て(海水が建物の近くにあったので)「帰る頃はこんな感じ」という説明でした。遠浅で、楽しかった記憶として残っているようです。「広場(大広場?)から電車(列車?)で30分くらい」と言ったような…。

 ・ランドセルと運動靴
 ランドセルと運動靴で登校。私は母と話しながら父にも(当時の日本)聞いたのですが、父は「布バッグに下駄かな?」でした。鞍山でもランドセルを特別とは感じなかったようなので、みんなランドセルだったのかもと言ってました。

 ・半地下のトイレ
 トイレは半地下で窓が上部にしかないので(暗くて)怖かったそうです。「なぜ半地下?」と聞いたら、母は防寒対策なのでは?でした(違うかな?)。半地下を意識しながら建物の写真を見ると地面近くに窓らしきものがある建物(満鉄の本社も)が多いような気がします(実際は窓ではないのかも)。

 ・学校の暖房
 石炭の小屋があり、そこで石炭を燃やし、教室にある蛇腹(縦)の形状のパイプ?に熱が伝わり部屋が暖かくなる(パイプの中は水?)…母の言葉と絵を簡単に文章にするとこんな感じです。鞍山の小学校も同じような方法だったそうです。そのパイプの上にお弁当箱を乗せ温めておいたそうです。満洲での暖房の話しになると母は「中国には石炭がたくさんあるから」と続き、大陸の資源の豊富さを感じていたそうです。

 ・帰りの寄り道
 以前、「ヤマトホテルの回転扉をぐるっと寄り道して帰った」と書いたのですが、写真を見ながら聞いたら「正面玄関ではない」でした。正面玄関には警備員(ドアマン?)もお客さまもいたから、そんなことはさすがにしない、と言うことでした。ホテルの側面にも回転扉がありそこには誰もいなかったので、こっそり廻らせてもらったそうです。

 文章にするのは難しいですね。
 地図を持っていったことでわかったこともあるので、また別の話しでお邪魔させて頂きます。
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:zyun  投稿日:2017年10月 6日(金)20時29分30秒
返信・引用
  > No.1927[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん ようこそ!こんばんわ!

>  キーワード+その他

> 大連駅 乗る人、降りる人で階が違い、日本の駅のシステムと違うことを私は以前から聞いたことがありました。立派だったということもあり、大連駅の記憶は忘れないみたいです。・・・・

 現在の大連駅は、昭和12年6月1日、現在の市街中心地に、東京・上野駅の設計をモデルにした、大連駅舎が新築完成したとあります。御母上様には、さぞかし、戦前の大連駅をよーくご存知のことと思います。画像を添付しますね。

それでは復のお越しを楽しみにしています。謝々!! 再見!! From zyun
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年10月 1日(日)23時25分51秒
返信・引用 編集済
  zyunさんへのお返事です。

 zyun様、大連の子の子さん、掲示板の中の皆様こんばんわ。

 zyun様へ

 コメントありがとうございます。
 満洲を知ると、zyun様のお父様が勤務していた満鉄の力の大きさがわかってきます。線路を作り、駅を作り、街を作る。どのくらいの勢いで(建築物も魅力的)作っていったのだろう…写真集を見ながら考えるのですがそのスピードはまったく想像できないままです。
 鏡ケ池の写真ありがとうございます。今では憩いの場所となっているみたいですね。

 大連の子の子さんへ

 東本願寺の話しは、友達と徒歩で同級生のお宅へ遊びにいったそうです。その日は東本願寺のお祭り?の日でもあったそうです。母に「用心深い生活をしていたのでは?」と尋ねたら「友達と一緒だったから」と。東本願寺は他の場所にもあることがわかったのですが、西本願寺と東本願寺を一緒に覚えていたことと、東本願寺が立派だったことを忘れていないので、遠さも気にならず、往復、徒歩で出かけたということになるようです。

 キーワード+その他
・西広場
 広場があることは覚えていましたが、西広場方向にはあまり出かけたことはなかったそうです。
・大連駅
 乗る人、降りる人で階が違い、日本の駅のシステムと違うことを私は以前から聞いたことがありました。立派だったということもあり、大連駅の記憶は忘れないみたいです。
・大連港
 母は一度も出かけたことはなかったそうですが、何度も出かけたことがあった祖母から、大連港の壮大さを母・叔母は聞いていたそうです。
・星ヶ浦
 海水浴で遊びに出かけたことはないそうです。ここには高級別荘があったことは知っていて、(別荘を持つ方々の)文化的レベルが全然違うとは感じたそうです。
・大連動物園と電気遊園
 知らない(出かけたことはない)そうです。
・旅順博物館
 知らないというので、「遠足はどこに行ったの?」と聞いたら、「行ったことない」と返ってきました。私「えっ?」でしたが、遠足を忘れたのか、本当に遠足という行事に参加したことがないのかのどちらかです。
・大広場の鷹
 知らないそうです。「男の子の遊びはわからないわ」でした。では何して遊んでいたのか尋ねたら近所に官舎があったことを思い出し、(今思えば)教頭先生のお子さんと官舎の前で遊んでいたのだそうです。

 近いうちに実家に行くのでまた何か聞いてきます。

 それでは、またお邪魔させて頂きます。
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:zyun  投稿日:2017年 9月30日(土)21時02分25秒
返信・引用 編集済
  > No.1924[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん こんばんわ! 「霞会掲示板」のご愛用、誠にありがとうございます。

>  キーワードの一つに小学校のスケートリンクがありましたが、冬は学校の校庭に土手をつくり、水をまいて作ったリンクがあったとを母もしっかり覚えています。しかし兄の一人がスケートでけがをしたので母は靴を買ってもらえなく、友達から借りて2~3回滑っただけだそうです。スケート靴はフィギュアタイプではなくスピードスケート用だったみたいです。・・・

 zyunも冬季はスケートをやりましたよ。同世代であるお母様の記憶は確かなものです。諺に曰く「雀百まで踊り忘れず」とか、傘寿を超えた老生ですが、今でも滑れますよ。スケート靴もスピードスケート用でしたね。小学校高学年になると、小学校のスケート場では物足りなくなり、鏡ケ池公園や春日池公園へ、学友と市内電車に乗って、スケート遠征をしたものです。

> 母の記憶が薄いので、「展望車Fは(他の車両から)見学に行ったのでは?」と疑う私に「その頃は等級だったから、それはできないと思うよ」でした。私は等級制を知らなかったので調べたのですが、今とは違い運賃・その他料金が等級毎に異なる・・・
>母は列車に乗った時、洋服に気を配ったことを覚えていたのですが【お出かけ着+革靴】、Youtubeや写真を見ると、確かに皆、上品な服を着ています。そのような時代だったそうです。・・・

お母様は、往時、それは、それは、素晴らしい貴重な体験をされているのですね。羨ましい限りです。zyunは残念ながら、特急アジア号乗車の経験がありません。因みに「アジア号」の運転開始は1934年11月1日から~1943年2月末には、運転休止となったとあります。

それでは、復のお越しを楽しみにしています。再見!! From zyun




 

小学校

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年 9月29日(金)00時58分5秒
返信・引用
  > No.1924[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

> キーワードの一つに小学校のスケートリンクがありましたが、冬は学校の校庭に土手をつくり、水をまいて作ったリンクがあったことを母もしっかり覚えています。しかし兄の一人がスケートでけがをしたので母は靴を買ってもらえなく、友達から借りて2~3回滑っただけだそうです。スケート靴はフィギュアタイプではなくスピードスケート用だったみたいです。

ひこうき雲様のお母様の記憶と私が父から聞いた記憶が一致しますね。
同じ場所にいたと思われます。
同じ小学校で間違い無いでしょう?

父は大連を語る時に小学校の校歌を歌って聞かせてくれました。
なのでなんとなく私も校歌を歌えます。
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年 9月26日(火)22時36分54秒
返信・引用
  大連の子の子さんへのお返事です。

zyunさま、大連の子の子さん、こんばんは。

> さばは鮮度が落ちやすい魚ですので、当時の中国の流通では大幅に鮮度の落ちた物を食べたのでしょうか?

 なるほど!その時母は、おじさんと生活をしていたので食事環境が変わったのかもしれません。その頃、祖父母は鞍山に移っていて、鞍山は寒いので母は大連にいたそうです。私の投稿には母しか登場しませんが、母の兄達は大連が寒く風邪ばかりひくので日本で生活していたそうです。
 キーワードの一つに小学校のスケートリンクがありましたが、冬は学校の校庭に土手をつくり、水をまいて作ったリンクがあったことを母もしっかり覚えています。しかし兄の一人がスケートでけがをしたので母は靴を買ってもらえなく、友達から借りて2~3回滑っただけだそうです。スケート靴はフィギュアタイプではなくスピードスケート用だったみたいです。

 (話しは変わりますが)その時代の列車…
 母の記憶が薄いので、「展望車は(他の車両から)見学に行ったのでは?」と疑う私に「その頃は等級だったから、それはできないと思うよ」でした。私は等級制を知らなかったので調べたのですが、今とは違い運賃・その他料金が等級毎に異なる(飛行機の運賃と同じ考え方)のだそうです。
あじあ号を調べていると、車両の連結順を何度も目にして気付いたのですが、食堂車が3等と2等の間にあるのは、等級制が理由なのかな(上の等級の通路を通らないため)?でした。母は列車に乗った時、洋服に気を配ったことを覚えていたのですが【お出かけ着+革靴】、Youtubeや写真を見ると、確かに皆、上品な服を着ています。そのような時代だったそうです。

 それではまた。
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:zyun  投稿日:2017年 9月25日(月)21時18分41秒
返信・引用
  > No.1922[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。

大連の子の子さん こんばんわ!

毎度のことながら、「霞会掲示板」に対するサポート誠にありがとうございます。

特急アジア号に係るパシナブルー について、貴兄の学術的解析による解説には、老生も全く感服した次第です。貴兄は専門家はだしですね。

それでは、復のお越しを楽しみにしています。謝々!再見!! From zyun
 

満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年 9月21日(木)23時28分42秒
返信・引用
  > No.1921[元記事へ]

zyunさんへのお返事です。

こんな記事見つけました。↓


パシナブルー

今日、中国の博物館に展示されています機関車パシナは、明るい水色で塗られています。
この水色は大変印象深いものでパシナブルーと呼ばれました。
あじあ号の色は、おおよそこれで一般に知られており、鉄道模型もこの明るい水色で塗られています。
この水色のほかにパシナは紺色や濃い藍色が知られています。また昭和16年にあじあ号に乗車された方から、車体が濃緑色とのお話を伺いました。パシナ、そして客車共に濃緑色で塗られていたそうです。
各車両や時期によって色はいろいろあったものと思われます。

さて白黒写真から色を推定するというのは難しいものではありますが、写っている車体が城っぽいか黒っぽいかで色の明るさを推定するのが妥当です。勿論、写っている明るさはフィルムに感光した光の量に比例しますので、濃い色の車体でも絞りを開けるかシャッターを遅くすると明るく写ってしまいます。そこで周囲と比較する方法で濃さを推測する事もできます。
まずこちらの写真では、車体は白っぽいことが挙げられます。一方でパシナは動輪は鮮やかな濃い赤で塗られており、こちらの写真も動輪は濃く写っています。この動輪との色の濃さに差があることから、車体は明るい色と考えられます(全体が明るく写ってしまったのではなく)。
以上、明るい色であることから、パシナ特有の明るい水色を撮影したものと考えられます。

また、戦争が始まりますと、燈火管制としてパシナの色は変更され、ダークグレーで塗装さました。この色ですと夜間は特に目立たない効果が期待されます。
この燈火管制型はヘッドライトに傘が取り付けられています。このことから、傘がついていて色が濃い場合は、ダークグレーの車体と考えられます。
この他、ヘッドライトに傘がついていない(燈火管制がなされていない)車体で黒っぽく写っているもので周辺と比較しても濃い色であるものは、濃い藍色の車体だといえます。

今回、あじあ号の彩色絵葉書は入手できず、すべてモノクロでお届けしております。さて、彩色絵葉書の中にはあじあ号客車が茶色から赤茶色で塗られているものを二つほど見たことが有ります。
現在、こうした茶色で塗られていたとする資料は見かけておりません。色につきましては引き続き、調べてみたいと思います。また彩色絵葉書は、白黒で撮影したものに印刷の段階で任意で色をつけますので、その際に色を誤った可能性もあります。

http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/071201/asia.html

 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:zyun  投稿日:2017年 9月21日(木)21時32分57秒
返信・引用 編集済
  > No.1918[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。

大連の子の子さん こんばんわ。レスが遅くなり申し訳ありません。

> 最近、ネット記事にパシナが出る事があります。そこで単純な疑問があります。教えて下さい。 現存するパシナの色はライトブルーのようですが・・・パシナはどのくらいの数が生産されたのでしょうか?・・・

貴兄から頂戴した、上記簡単明瞭な質問に対する回答探し をしていた次第です。zyunが所有する大連関連資料のなかから、「満鉄を知るための12章 歴史と組織・活動 天野裕之著」によると、詳しく記述されています。それによると、・・・巨大な紺青色の流線形車体に、牽引力・・・・とあります。現在のライトブルーとは、少々異なるのでは?・・・

パシナは、大連沙河口の鉄道工場で3両、日本の川崎車両で8両、更に二年後、通称ヘルメット型の1両を追加したと記述されていました。参考までに、画像を添付しますね。

取り急ぎ要用のみ。復のお越しを楽しみにしています。謝々!!From zyun

 

満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年 9月21日(木)01時09分2秒
返信・引用
  > No.1919[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

こんばんは。
大連の子の子です。

列車に乗るきっかけとったなった出来事は(大幅に省略したら)、さばを食べ、体に蕁麻疹が出たことみたいですが、その時の蕁麻疹は忘れていなく、今でも口にしないそうです。母の記憶は、
 蕁麻疹>>>>>>一等展望車。

まるで父と同じですね?
実は父もさばを食べてアレルギー反応が出たらしく、一生さばは食べませんでした。
なので我家ではさばが食卓に用意される事は有りませんでした。
私自身、そんな環境で育ったのでさばを食べ始めたのは最近です。

さばは鮮度が落ちやすい魚ですので、当時の中国の流通では大幅に鮮度の
落ちた物を食べたのでしょうか?

共通点有りますね?たかがさばですが。

またパシナについても同じ疑問をお持ちのようで、
zyun様に教えて頂きたいです。
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年 9月21日(木)00時34分52秒
返信・引用 編集済
  大連の子の子さんへのお返事です。

> 現存するパシナの色はライトブルーのようですが、
> これは戦後に中国人に塗り替えられたと私は思っております。

 この一か月、あじあ号についてひたすら検索していました。投稿をするには悩む部分が多く困っていましたが、思わぬ形で話題を提供して頂いたので、別の話題と共に投稿させて頂きます。

 色に関しては「白黒写真でも色の濃淡から、明るい色のパシナにも見える」と書かれている文章を読んだので(【満洲写真館「特急あじあ」】より)、水色のパシナは存在したのでは?と私は思っています。でも、現存する(博物館)パシナの水色=パシナブルーだとしたら、なかなかの色ですね。白黒写真の多くのパシナは私も黒?・濃緑?・濃い藍色?の印象を受けます。戦時中は目立たない色に塗り替えたとの文章も目にした気がします。

 この夏の【私・母・叔母】の会話の一部
 母 「お父さん(祖父)がね、展望車っていうの?今でもあるでしょ、こう窓が…」
 私 「パノラマカー?」
 母 「そう、今でいう、パノラマカー?それに乗せてくれたのよね」
 叔母「えーと…たまに日本でも耳にするよ、えーと……あ・あじあごう」
 母 「そう、あじあごう」(この話題はこれで終わりました)

 母の口調からは、少し贅沢な時間だった、くらいの印象しか受けなかったのですが、調べたら、その列車が私の想像を超えていたので、「母は乗ったみたいです」とは簡単に書けなくなってしまいました。

 一等展望客車には最低3種類《①最後尾にガラスの仕切りの個室がある/②真ん中あたりに仕切り(本棚?)がついている/③仕切りがない》あることがわかり、母には強烈な記憶は残っていないので、③のサロン部分(ここを展望室というみたいです)でない座席に座ったのかな?です(確認はまだしていません)。母は食堂車にも行ったようですが、特に覚えていることもないようです。

 列車に乗るきっかけとったなった出来事は(9割くらい省略したら)、さばを食べ、体に蕁麻疹が出たことみたいですが、その時の蕁麻疹は忘れていなく、今でも口にしないそうです。母の記憶は、
 蕁麻疹>>>>>>一等展望車。
 そしてこれをきっかけに母は鞍山に移ったそうです。

 色に関しては何もお役に立てず、すみません。

 大連の子の子さんが提示してくれた、キーワードを一つ一つ投稿しようと思っていたのですが、あじあ号が私には重すぎて。これですっきりしました。

 検索しすぎて、テンイ8を覚えてしまいました。

 それではまた。
 

満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年 9月18日(月)00時33分50秒
返信・引用
  zyun様、ひこうき雲様

こんばんは。
最近、ネット記事にパシナが出る事があります。
そこで単純な疑問があります。
教えて下さい。

現存するパシナの色はライトブルーのようですが、
これは戦後に中国人に塗り替えられたと私は思っております。

zyun様のトップページにあるパシナは黒っぽい色に見えます。
多くの動画も黒っぽく見えます。
カラー映像では無いので詳細な色は分かりません?
D51のような黒なのか?紺なのか分かったら教えて下さい。
また当時2色存在したのか等。
また色が変更された経緯など分かれば教えて下さい。

パシナはどの位の数が生産されたのでしょう?

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170914-00000064-sasahi-cn

 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2017年 9月14日(木)16時29分51秒
返信・引用
  > No.1916[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。

 zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の中のみなさまこんにちは。

 私もその記事読みました!
 

満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2017年 9月14日(木)01時41分58秒
返信・引用
  こんな記事見つけました。↓

南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」。かつて超特急「あじあ号」が広大な満州の原野を走った。敗戦で満鉄は消滅し、今では多くの関係者が鬼籍に入った。戦後72年。満鉄とは何だったのか。関係者の記憶を集めた。

*  *  *
 かつて日本が傀儡国家としてつくった満州国(中国東北部)。遼東半島南部の関東州・大連の日赤病院で生まれた天野博之さん(81)は戦後長く、父親が満鉄(南満州鉄道株式会社)幹部だったことは公にしてこなかった。

「満鉄というのは、日本帝国主義の先兵と思っていましたから」

 父親は一高から東京帝国大学法学部を出て、1934年から満鉄本社の総裁室に勤務した。以後、天野さんは父親の異動にともない、大連、奉天(現・瀋陽)、新京(現・長春)、撫順、吉林と移り住んだ。満州では社宅に住んだ。

「社宅は水洗便所で電気、ガス、水道などが完備していました。冬になるとスチーム暖房。それを使って、風呂には一年中お湯も出ました。戦前の日本では考えられない文化的生活でした」

 敗戦から2年後の47年7月、11歳の天野さんは家族7人で日本に引き揚げてきた。しかし当時、満鉄は「植民地支配の手先」という文脈で語られることも多く、話すことがはばかられる時代の空気があった。父親も、満鉄や満州について多くを語らなかったという。天野さんは大学を卒業すると、小学館に就職。95年に定年退職すると、父親の死を受けて満鉄の旧社員や家族らでつくる「満鉄会」の会員となった。満鉄会解散時(2016年3月)、専務理事として尽力した天野さんは言う。

「農業のほかに見るべき産業を持たなかった満州の地に、鉄道をはじめ各種産業の基礎を築いたことは無視できません。そうした考えは、最近の中国でも増えています」

 満鉄は、日露戦争講和の翌1906年、ポーツマス条約でロシアから譲渡された東清鉄道の南半分(長春─旅順)と沿線付属地の利権をもとに産声を上げた。営業開始は翌07年4月で、今年は110年の節目に当たる。初代総裁は、台湾総督府民政局長を務めた後藤新平。本社は沿岸部の大連に置かれた。満鉄は鉄道だけでなく炭鉱、小中学校、病院、ホテルまで経営。最大時、40万人の社員を擁し「満鉄王国」とまで称された。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170912-00000053-sasahi-cn.view-000

 

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