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Re: 納豆

 投稿者:zyun  投稿日:2020年 7月25日(土)12時06分39秒
返信・引用 編集済
  > No.2060[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん こんにちわ。いつものことながら、「回想大連」をサポート頂き誠にありがとうございます。

>大連をまだよく知らない時に聞いた話だったので、中国に納豆?と不思議に思いました。母から「大連には日本にあるものは何でも揃っていた」と聞き、後々、色々な職業の人が住み日本と同じ暮らしができていたのだとわかるようになったのですが、それらを知るきっかけとなったのが、納豆だったように思います。・・・

> zyunさまは子供時代(大連で)納豆を食べた記憶、ありますか?

「満州大豆」に関する貴台の御考察 合点しました。納得。良ーく勉強されましたね。
追想大連におけるzyun一家の朝食は、日本古来の朝食定番である納豆が食卓に、必ずついておりましたね。往時親父が好きだったのかもしれませんが・・・

>「献納機」について、いろいろと調べながら考えてみると「海軍・陸軍に各一機・・・合計2機????等々。・・・

zyunにとっては、感慨深い話題ですね。想うに、往時、御祖父様には、満洲国建国に関して多大な貢献をされていたことが伺える処ですね。

追而、タウンマップ大連の第5版では、浪速町2丁目に 光陽写真館と記述されていましたが?・・・

それでは復のお越しを楽しみにお待ちしています。謝謝!再見!From Zyun


 
 

Re: 納豆

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2020年 7月20日(月)00時20分22秒
返信・引用
  > No.2060[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

zyunさん、皆様こんばんは。

納豆は当時も国民食でしょうから、
大連でも販売されていたのでしょう?

ただ、祖父母は西日本出身者なので、
元々納豆を好まないのか?
父からは納豆についての
話題を聞いた事はありません。

映画/ドラマの赤い月では満州で日本酒の製造もしています。
こららからしても日本人が満州で納豆を生産していても
不思議は無いですね?
同じ発酵食品ですし。

 

納豆

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 7月18日(土)14時59分32秒
返信・引用
   zyunさま、大連の子の子さん、掲示板のみなさま、こんにちは。

 母には“納豆”にまつわる出来事があり、その話から私は大連には納豆があったということを知りました。
 大連をまだよく知らない時に聞いた話だったので、中国に納豆?と不思議に思いました。
 母から「大連には日本にあるものは何でも揃っていた」と聞き、後々、色々な職業の人が住み日本と同じ暮らしができていたのだとわかるようになったのですが、それらを知るきっかけとなったのが、納豆だったように思います。

 戦前の大連や満洲の写真を見ていると“大豆粕”や“大量に積まれた大豆”の写真を目にすることがあり、中国(満洲)では大豆がたくさん生産できるのだな、と思いました。

 これら二つのことがなんとなく頭の中にあった時に、中国人が苦手(嫌い?)な日本食のひとつに“納豆”があることを知り(記事を読み)、
「日本人が引き揚げた後、日本の食文化(技術的なものも含め)は何も残らなかったのかな?大豆もたくさんあるのに」とふと思いました。

 私のこの考え方は間違っているのですが、気づきますか?

 ここからは、満洲の大豆のことを知り、自分の間違いに気づいた、という話です。

 調べてみたら、中国の土地で大豆(満洲大豆)の生産量が多かったのは、日本人が暮らしていた期間だけでした。
 当時の日本人が、大豆作りに適していない中国の土壌を改良し、品種改良をし、満洲を世界最大の生産国にしたそうです。
 “大豆粕”や“大量に積まれた大豆”の写真の先には当時の方々の大豆に対する苦労や熱意がありました。

 「満州大豆」で検索すると、わかりやすく書かれているものから、本格的に書かれているものまで色々ありました。興味がある方は是非読んでみて下さい。

 満洲大豆の歴史は、後に満鉄の総裁となる山本条太郎さんに始まり、現在の日本の農業事情にまでつながっていました。


 母が大連の記憶に“納豆”があったのは、嫌いだったからです。

 zyunさまは子供時代(大連で)納豆を食べた記憶、ありますか?
 

賞状みたいなもの

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 7月17日(金)22時06分29秒
返信・引用
  zyunさんへのお返事です。


> 御祖父様には、昭和初期に、既に、大連で手広く商業?を営んでいたのですね、追想大連における偉大な先駆者であったことが伺えます。差し支えなければ、往時の商業屋号等を御教示頂けると幸甚です。
>
 祖父のことに触れて頂きありがとうございます。
 zyunさまの投稿を受け、書いてみようと思いましたが、商号を書くとそこから氏名・住所(当時)までわかってしまいそうなのでここは伏せさせて下さい。そして母の話から今まで“手広く”を感じることはなかったので、この言葉も遠ざけて読んで頂けたらと思います。

 祖父の仕事は、建設に関わる業種の一つです。
 「祖父母はとにかく忙しかった」
 話を聞くと必ず1度はこの言葉が出て、母は遊びに出掛けたという思い出もないようです。

 母から聞く戦後は、食べる物に困った、というような話は出ず、
 また、学校が再開されず、やることがなくなってしまったので、お琴を買ってもらい、お琴を習い始めた(隣家の方が習っていたので自分も)と、このような話も聞き、
 葫蘆島までは、列車が止まる度に祖父も交渉のために動き、体験談で読んだことがある“列車が動かず大変だった”ということもなかったようで…、
 これらを聞き、祖父の存在で家族は困ることなく引揚げまで生活できたのだろう、私はそのように思いました。

 祖父は50年近く前に亡くなり、母は話を聞く機会はなかったのではないかと思い、私から祖父のことを聞くことはしてきませんでした。今回zyunさまの投稿を受け、また、少し気になることもあったので、改めて聞いてみました(聞いてきました)。

 母は住んでいた家を“出張所”と表現します。暮らしていたのだから“家”で良いのにと思うのですが、必ず「出張所には…」となります。どのような雰囲気なのか、私は今でもイメージはできませんが、そこには親戚、知り合いなど多くの方がいたそうです。
 以前、土地というものに疑問を持ち聞いてみたら、出張所は借りていたところだと思うと言っていました。

 その出張所は、大連・鞍山(この二つは知っていたのですが)その他に奉天・哈爾濱・北京(?)にあったそうです。
 どこの出張所へ行くのにも移動が大変(特級列車でも時間がかかる)と思ったら
 「満洲は広いから、飛行機(プロペラ?)よ」と。
 移動に飛行機…?? そんな話も過去に聞いたことがあったのですが、祖父の話ではなく、「満洲では、…」と思っていました。しかしこの話を聞き、以前聞き流したことは、もしかして冗談ではないのかも?と思い改めて気になっていたことを聞いてみました。


(1年ほど前)
 ヤフオクに東条英機の名前が書かれた感謝状が出品されていたのを見て、20年以上前に母から
 「東条英機の賞状みたいなものがあった(母の実家の片付けをしていた時に出てきた)」
と、聞いたことを思い出しました。
 母に見てみたいと伝えたら、
 「もうどこにあるかわからない、何かの供出では?」で、終わりました。
 そこへ一緒に話をしていた父が一言「戦闘機」。
 その時は冗談だと思ったのですが、後で調べてみたら、戦闘機の献納(戦闘機1機分の献金。この戦闘機は献納機と呼ばれる)は個人~団体まで様々な形で頻繁に行われていたということがわかりました。

 今回、父に戦闘機だと思った理由を尋ねてみたところ、感謝状を見たことがあったのだそうです。
 そして、「もう1枚(海軍)あった」と。

 父が覚えていた「しま?」から、【海軍大臣 嶋田繁太郎】の名前が書かれていたのだろうとなりました。
 母は供出(献金)の額は祖母から聞いたことがあるようですが献納機については知りませんでした。
 この話題で盛り上がることはなかったので(驚くことではないような雰囲気だったので)
 「海軍・陸軍に各1機?何だかすごいね」で終わりました。
 自宅に戻り献納機について色々と調べながら考えてみると「海軍・陸軍に各1機……合計2機?????」
 海軍は献納機で陸軍は母が言う供出(献金)?母と父がみた感謝状は同じなのだろうか?…等々。私が見たわけではないので考えてもわからず、『そのような話を聞くことができた』で終わることにしました。

 これらの話を聞くと、祖父母の大連・満洲での生活は、私が想像していた以上に、そして母の言葉の通り『とにかく忙しかった』のだと思います。

 母は、
「満洲は広いので仕事がたくさんあった。それでも多くの仕事を頂けたのは、祖父の性格と祖母の助けがあったからなのだろう」と話します。
 祖母が何度も話したのか、「〇〇会社の〇〇さんは…」と、母も叔母も今でも名前を覚えているので、仕事で巡り合えた方にも恵まれていたのだと思います。

 母の話は、このような環境の中で見てきた話となるようです。

 献納機についてネットで調べてみましたが、多くが日本(内地)のものばかりでした。zyunさまの言葉ではないですが、大連には手広く商売をしていた方が多かったと思うので、献納機の数も多かったのだろうと思い、調べてから投稿したかったのですが、わかりませんでした。


 献納機は【陸軍 愛国号】【海軍 報国号】と、名前が付けられていたそうです。

 

寫眞館

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 7月17日(金)14時39分2秒
返信・引用 編集済
  zyunさんへのお返事です。

 zyunさま、大連の子の子さん、掲示板のみなさま、こんにちは。お久しぶりです。

 2か月前の話題ですが、掲示板の中ではタイミングのずれはなさそうで安心しました。
 (投稿をするならば実家で情報収集をと思ったのですが、自粛もあり遅くなってしまいました)

> zyunも手持ちの資料から調べてみましたが、「タウンマップ大連」(第5版)では、伊勢町界隈で探すことが出来ませんでした。それにしても、往時の、写真館の多いことにビックリ!時代背景もありましょうが?・・

 写真館多いですよね、私も同じように思いました。

 再度探してみたら移転したようです。タウンマップ大連の第5版ならば、浪速町に記載があるかも?です。

 昭和11年度 光洋寫眞館(伊勢町51)
 昭和15年度 光洋寫眞館(浪速町3丁目)

 3丁目しか書かれていないのですが、見つかりますか?どうでしょう…

 

(無題)

 投稿者:Meamo  投稿日:2020年 5月11日(月)13時13分44秒
返信・引用
  香川県さぬき市ルーちゃん餃子のフジフーヅは入ったばかりのバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業.中卒オヤジ岸下守の犯行.
裁判で偽証したため会社は潰れました.
こいつです.
https://www.google.com/maps/contrib/108033289100860086931/photos/@34.2633136,134.2139192,14z/data=!4m3!8m2!3m1!1e1?
 

Re: 謎のままが良いのでしょう。

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2020年 5月 8日(金)02時21分13秒
返信・引用
  > No.2052[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

> 大連の子の子さんへのお返事です。
>
>  写真館は終戦まで営業をしていたのかと思っていたのですが、お父様が亡くなった時(終戦前)に辞めていたみたいですね。
>
>  三船さんの記事を読みながら、大連の子の子さんの過去の投稿を思い出しました。
>  おばあ様の話からも、やはり謎のままが良いのでしょうね。

祖父はS20終戦前に病気で亡くなってるので
事業も廃業したと思われます。

もう誰にも真実は聞けないので
あくまで想像ですが?
 

Re: 祖母に「見せたかったね。」

 投稿者:zyun  投稿日:2020年 5月 5日(火)12時08分38秒
返信・引用 編集済
  > No.2053[元記事へ]

ひこうき雲さんへのお返事です。

ひこうき雲さん こんにちは。毎度のことながら、「霞会掲示板」をサポート頂き誠に有難うございます。

> 大連商工案内】の昭和11・15年度版をネット内に見つけました(探すと色々ありますね)。
 以前【昭和3年 大連商工名録】を見つけた時、このようなものがネットで見られることに、感激しました。昭和初期の大連にどのような会社や職業が存在していたのかを知ることができ参考になりました。・・・
>手元にある写真『KOYO-PHOTO-STUDIO』は、伊勢町の光洋寫眞館で撮影したものだとわかりました(名字が一緒なので、たぶん)。・・・

zyunも手持ちの資料から調べてみましたが、「タウンマップ大連」(第5版)では、伊勢町界隈で探すことが出来ませんでした。それにしても、往時の、写真館の多いことにビックリ!時代背景もありましょうが?・・

>今回もまた、興味を持って見たところ、祖父の名前を見つけることができました。記載されている商號を母に伝えると、名前に記憶があり「そう、そう」と 電話番号も大切な数字に思えてきます・・・

御祖父様には、昭和初期に、既に、大連で手広く商業?を営んでいたのですね、追想大連における偉大な先駆者であったことが伺えます。差し支えなければ、往時の商業屋号等を御教示頂けると幸甚です。

追伸 ホームページ・旅行者のための大連情報「看看・大連」をご存知でしょうか?「看看・大連」で検索するとご覧になれます。どうぞ、ご一見下さい。

それでは復のお越しを楽しみにお待ちしています。謝!! 再見!!From Zyun


 

「見せたかったね。」

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 4月21日(火)22時08分36秒
返信・引用 編集済
  zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の皆さま、こんにちは。

 【大連商工案内】の昭和11・15年度版をネット内に見つけました(探すと色々ありますね)。

 以前【昭和3年 大連商工名録】を見つけた時、このようなものがネットで見られることに、感激しました。昭和初期の大連にどのような会社や職業が存在していたのかを知ることができ参考になりました。

 「祖母は日本に帰る時、観光をしながら帰ることが、楽しみだったみたいだよ」と聞いた時、観光って飛び込みで宿泊?と思ったのですが、旅行会社もこの頃にはあり、ツアーを利用したのだろう、と考えられるようになりました。

 お菓子の職業のところに『木村屋』の文字を見つけ、もしかしたらと(HPで)調べたら、やはり『(あんぱんの)木村屋』さんでした。食に関しても大連には美味しいお店が多くあったのだろうと思えました。

 今回もまた、興味を持って見たところ、

 手元にある写真『KOYO-PHOTO-STUDIO』は、伊勢町の光洋寫眞館で撮影したものだとわかりました(名字が一緒なので、たぶん)。

 もう一つ、
 祖父の名前を見つけることができました。
 記載されている商號を母に伝えると、名前に記憶があり「そう、そう」と。
 電話番号も大切な数字に思えてきます。

 叔母にも伝え、私を含め3人が思ったことは、
 「祖母に見せたかったね。」です。
 

謎のままが良いのでしょう。

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 4月21日(火)20時38分21秒
返信・引用 編集済
  大連の子の子さんへのお返事です。

 写真館は終戦まで営業をしていたのかと思っていたのですが、お父様が亡くなった時(終戦前)に辞めていたみたいですね。

 三船さんの記事を読みながら、大連の子の子さんの過去の投稿を思い出しました。
 おばあ様の話からも、やはり謎のままが良いのでしょうね。
 

旧三船さんの住居

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2020年 4月21日(火)02時27分15秒
返信・引用
  私が2007年に大連に亡き父と訪中した時には
当時三船氏が住んでいた住居は残っていました。
かなりのあばら家ですが、父の記憶と合致して
いました。
周辺は都市開発の波があり、
現在は存在するのか?



 

謎のままが良いのかも

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 4月18日(土)18時42分11秒
返信・引用
  zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の皆さま、こんにちは。

 【大陸で生まれた…】の文字を見つけ、ファミリーヒストリー(古舘伊知郎さんの再放送)を見ました。

 古舘さんの亡きお父様は、親元を離れ大連第一中学校へ進んだそうです。
 大連第一中学校を検索していたら、いつの間にかzyunさまのホームページを読んでいました(笑)。同じ学校(大連中学)?と思ったのですが、大連第一中学校と大連市立大連中学校があったということですね。

 検索をしていくと、三船敏郎さんの名前がよく出てくるので、記事を読むと、三船さん家族は青島から大連に移ってきたとありました。
 古舘さん家族は【青島の中国返還で】日本人が減り始めたので、青島から龍口に移り、そこでまた商売を始めたそうです。
 三船さんの記事には、【父の仕事の不振で、5歳の頃から大連”に移った】と書かれているので、不振の原因は、日本人が減った後も青島で仕事を続けていたから…ということだったのかな?と思いました。

 “大陸”“引き揚げ”の文字が入るファミリーヒストリーは、そのご家族の話から当時を知ることができ、参考になります。

 ところで…、
 三船さんの記事を読んでいくうちに、わからなくなりました。三船さんが通ったのは、『大連第一中学校』『大連市立大連中学校』どちらなのでしょう?
 三船さんが大連に移った年齢も記事によって5・7・9歳と様々です。
 「世界のミフネ」さんなので、謎のままの方が良いのかもしれませんが。
 

「ガタガタ」から想ったこと

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 4月18日(土)17時58分1秒
返信・引用
  zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の皆さま、こんにちは。

 「今のとは違って、ガタガタだよ」と母は話しますが(母は乗っていないので、祖母がそのように話したのかな?)祖母は飛行機(プロペラ機)で日本に帰ってきたことがあったそうです。

 大連から日本の家に帰る場合、船を利用すると5日かな?と考えました.
(神戸・大連間の所要日数は4日と書かれた記事を読んだので“+1”)

 飛行機を利用すると2日。
 【大連6:40発 → (夜間は飛行していないので一泊)東京15:50着】
 (S9年の時間表より)
 祖母が利用したのは昭和2桁に入ってからだと思うのですが(時間表は)探せませんでした。。

 急いで帰りたい理由があっての利用ですが、大連(満洲)での暮らしは、『日本は遠い』と感じる時もあったのだろう、と思いました。それなりの覚悟を持って暮らしていた人は多かったのでしょうね。

 「ガタガタ」の感想を聞きたかったな、、、です。
 

『なのか』がわかる気がする

 投稿者:ひこうき雲  投稿日:2020年 4月18日(土)14時42分29秒
返信・引用
  zyunさま、大連の子の子さん、掲示板の皆さま、こんにちは。そして多忙暇人さん初めまして。
>
> マイ母校である大連霞国民学校では、全面的に標準語使用でしたね。
>
 zyunさま、ありがとうございます。
 地方に戻った方ほど言葉に関しての記憶は残っていると思ったので、お聞きしてよかったです。

 「祖母は、“ざます”で話していたよ」と母が。
 日常ではなくお付き合いの中で、とのことですが、このような話も私には当時の大連を想像する材料になったりします。

 私の祖母が亡くなったのは、十数年前です。地方在住の田舎の祖母ですが、私は何か不思議な魅力を感じていました。
 大連・満洲に興味を持つことがなかったら、“何か不思議な”と感じたものが何だったのか、わからないままだったと思います。

 (歌手の)辛島美登里さんが、ご家族のことを話した記事があり、お母様のことを
 【旧満州(中国東北部)の引き揚げ者で、大陸的なのか、「何とかなるわ」というおおらかな人】と表現していました。
 “大陸的なのか”の『なのか』の部分は、私の『何か不思議な』と、似た感覚なのかな?と思いました。

 zyunさまへ
【管理者へのメール】の件、お手数をかけました。内容は大連の子の子さんの投稿を受けてお願いしたものでした。

 大連の子の子さんへ
 zyunさまの投稿から状況を理解して頂けるのではないかと思うのですが…。
(投稿するタイミングがなく、時間ばかり過ぎ申しわけありませんでした)
 

令和も康徳も

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2020年 4月15日(水)02時15分21秒
返信・引用
  満州国の年号である康徳も良いですよね。
知る人は少ないと思います。
志村けんさんの父である憲司さんは教育者なので、
息子に満州国の年号を命名したのかも知れませんね?
 

Re: 満州国改元年号康徳

 投稿者:zyun  投稿日:2020年 4月 3日(金)14時57分10秒
返信・引用 編集済
  > No.2045[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。

大連の子の子さん 你好! 先ずは、ご健勝の様子で何よりです。

>志村けんさんがお亡くなりになり、大変残念です。 お亡くなりになった後の報道で志村けんさんの本名が
> 志村 康徳(しむら やすのり)さんだと知りました。・・・
> 偶然でしょうね? 当時の満州国の年号ですよね。・・・

大連の子の子さんの着眼点には、脱帽しました。満州国帝政移行後の改元年号ですね。満州国建国は、昭和7年(年号大同)と聞いておりますから、zyunが生まれる前ですよね。1945年8月には、満州国は滅亡したことになりますね。

それでは復のお越しを楽しみにお待ちしています。謝!謝!再見! From Zyun
 

康徳

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2020年 3月31日(火)01時02分38秒
返信・引用
  > No.2040[元記事へ]

zyunさんへのお返事です。

ご無沙汰しております。
志村けんさんがお亡くなりになり、大変残念です。

お亡くなりになった後の報道で
志村けんさんの本名が
志村 康徳(しむら やすのり)さんだと知りました。

zyunさんなら分かるように当時の満州国の年号ですよね。

偶然でしょうね?
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:大連の子の子  投稿日:2020年 3月31日(火)00時07分18秒
返信・引用
  > No.2043[元記事へ]

多忙暇人さん初めまして。

過去の投稿に返信ありがとうございます。

状況が分かっていれば大連訪中時にあじあ号も見学しておけば
良かったと思っております。

D51とかは見た事ありますが、
記事から見るあじあ号の車輪径からして
巨大な機関車だったと想像します。




多忙暇人さんへのお返事です。

> 大連の子の子さんへのお返事です。
> 天野博之さんは2018年7月27日に82歳で他界されました。
>
> > こんな記事見つけました。↓
> >
> > 南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」。かつて超特急「あじあ号」が広大な満州の原野を走った。敗戦で満鉄は消滅し、今では多くの関係者が鬼籍に入った。戦後72年。満鉄とは何だったのか。関係者の記憶を集めた。
> >
> >  *  *  *
> >   かつて日本が傀儡国家としてつくった満州国(中国東北部)。遼東半島南部の関東州・大連の日赤病院で生まれた天野博之さん(81)は戦後長く、父親が満鉄(南満州鉄道株式会社)幹部だったことは公にしてこなかった。
> >
> >  「満鉄というのは、日本帝国主義の先兵と思っていましたから」
> >
> >   父親は一高から東京帝国大学法学部を出て、1934年から満鉄本社の総裁室に勤務した。以後、天野さんは父親の異動にともない、大連、奉天(現・瀋陽)、新京(現・長春)、撫順、吉林と移り住んだ。満州では社宅に住んだ。
> >
> >  「社宅は水洗便所で電気、ガス、水道などが完備していました。冬になるとスチーム暖房。それを使って、風呂には一年中お湯も出ました。戦前の日本では考えられない文化的生活でした」
> >
> >   敗戦から2年後の47年7月、11歳の天野さんは家族7人で日本に引き揚げてきた。しかし当時、満鉄は「植民地支配の手先」という文脈で語られることも多く、話すことがはばかられる時代の空気があった。父親も、満鉄や満州について多くを語らなかったという。天野さんは大学を卒業すると、小学館に就職。95年に定年退職すると、父親の死を受けて満鉄の旧社員や家族らでつくる「満鉄会」の会員となった。満鉄会解散時(2016年3月)、専務理事として尽力した天野さんは言う。
> >
> >  「農業のほかに見るべき産業を持たなかった満州の地に、鉄道をはじめ各種産業の基礎を築いたことは無視できません。そうした考えは、最近の中国でも増えています」
> >
> >   満鉄は、日露戦争講和の翌1906年、ポーツマス条約でロシアから譲渡された東清鉄道の南半分(長春─旅順)と沿線付属地の利権をもとに産声を上げた。営業開始は翌07年4月で、今年は110年の節目に当たる。初代総裁は、台湾総督府民政局長を務めた後藤新平。本社は沿岸部の大連に置かれた。満鉄は鉄道だけでなく炭鉱、小中学校、病院、ホテルまで経営。最大時、40万人の社員を擁し「満鉄王国」とまで称された。
> >
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:多忙暇人  投稿日:2020年 3月29日(日)11時28分51秒
返信・引用
  > No.1916[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。
天野博之さんは2018年7月27日に82歳で他界されました。

> こんな記事見つけました。↓
>
> 南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」。かつて超特急「あじあ号」が広大な満州の原野を走った。敗戦で満鉄は消滅し、今では多くの関係者が鬼籍に入った。戦後72年。満鉄とは何だったのか。関係者の記憶を集めた。
>
>  *  *  *
>   かつて日本が傀儡国家としてつくった満州国(中国東北部)。遼東半島南部の関東州・大連の日赤病院で生まれた天野博之さん(81)は戦後長く、父親が満鉄(南満州鉄道株式会社)幹部だったことは公にしてこなかった。
>
>  「満鉄というのは、日本帝国主義の先兵と思っていましたから」
>
>   父親は一高から東京帝国大学法学部を出て、1934年から満鉄本社の総裁室に勤務した。以後、天野さんは父親の異動にともない、大連、奉天(現・瀋陽)、新京(現・長春)、撫順、吉林と移り住んだ。満州では社宅に住んだ。
>
>  「社宅は水洗便所で電気、ガス、水道などが完備していました。冬になるとスチーム暖房。それを使って、風呂には一年中お湯も出ました。戦前の日本では考えられない文化的生活でした」
>
>   敗戦から2年後の47年7月、11歳の天野さんは家族7人で日本に引き揚げてきた。しかし当時、満鉄は「植民地支配の手先」という文脈で語られることも多く、話すことがはばかられる時代の空気があった。父親も、満鉄や満州について多くを語らなかったという。天野さんは大学を卒業すると、小学館に就職。95年に定年退職すると、父親の死を受けて満鉄の旧社員や家族らでつくる「満鉄会」の会員となった。満鉄会解散時(2016年3月)、専務理事として尽力した天野さんは言う。
>
>  「農業のほかに見るべき産業を持たなかった満州の地に、鉄道をはじめ各種産業の基礎を築いたことは無視できません。そうした考えは、最近の中国でも増えています」
>
>   満鉄は、日露戦争講和の翌1906年、ポーツマス条約でロシアから譲渡された東清鉄道の南半分(長春─旅順)と沿線付属地の利権をもとに産声を上げた。営業開始は翌07年4月で、今年は110年の節目に当たる。初代総裁は、台湾総督府民政局長を務めた後藤新平。本社は沿岸部の大連に置かれた。満鉄は鉄道だけでなく炭鉱、小中学校、病院、ホテルまで経営。最大時、40万人の社員を擁し「満鉄王国」とまで称された。
>
 

Re: 満鉄営業開始から110年目の記憶

 投稿者:多忙暇人  投稿日:2020年 3月29日(日)11時22分39秒
返信・引用
  > No.1922[元記事へ]

大連の子の子さんへのお返事です。
南満州鉄道が1934年に出した公式冊子によれば「濃紺色の機関車に純白のカラーバンドを施した淡緑色の客車」となっています。

> zyunさんへのお返事です。
>
> こんな記事見つけました。↓
>
>
> パシナブルー
>
> 今日、中国の博物館に展示されています機関車パシナは、明るい水色で塗られています。
> この水色は大変印象深いものでパシナブルーと呼ばれました。
> あじあ号の色は、おおよそこれで一般に知られており、鉄道模型もこの明るい水色で塗られています。
> この水色のほかにパシナは紺色や濃い藍色が知られています。また昭和16年にあじあ号に乗車された方から、車体が濃緑色とのお話を伺いました。パシナ、そして客車共に濃緑色で塗られていたそうです。
>  各車両や時期によって色はいろいろあったものと思われます。
>
> さて白黒写真から色を推定するというのは難しいものではありますが、写っている車体が城っぽいか黒っぽいかで色の明るさを推定するのが妥当です。勿論、写っている明るさはフィルムに感光した光の量に比例しますので、濃い色の車体でも絞りを開けるかシャッターを遅くすると明るく写ってしまいます。そこで周囲と比較する方法で濃さを推測する事もできます。
> まずこちらの写真では、車体は白っぽいことが挙げられます。一方でパシナは動輪は鮮やかな濃い赤で塗られており、こちらの写真も動輪は濃く写っています。この動輪との色の濃さに差があることから、車体は明るい色と考えられます(全体が明るく写ってしまったのではなく)。
>  以上、明るい色であることから、パシナ特有の明るい水色を撮影したものと考えられます。
>
> また、戦争が始まりますと、燈火管制としてパシナの色は変更され、ダークグレーで塗装さました。この色ですと夜間は特に目立たない効果が期待されます。
> この燈火管制型はヘッドライトに傘が取り付けられています。このことから、傘がついていて色が濃い場合は、ダークグレーの車体と考えられます。
> この他、ヘッドライトに傘がついていない(燈火管制がなされていない)車体で黒っぽく写っているもので周辺と比較しても濃い色であるものは、濃い藍色の車体だといえます。
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>  今回、あじあ号の彩色絵葉書は入手できず、すべてモノクロでお届けしております。さて、彩色絵葉書の中にはあじあ号客車が茶色から赤茶色で塗られているものを二つほど見たことが有ります。
>  現在、こうした茶色で塗られていたとする資料は見かけておりません。色につきましては引き続き、調べてみたいと思います。また彩色絵葉書は、白黒で撮影したものに印刷の段階で任意で色をつけますので、その際に色を誤った可能性もあります。
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